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东京造型大学

 mastereye 2014-08-14

2013年度(ねんど)入学(にゅうがく)式(しき) 諏訪(すわ)学長(がくちょう)による式辞(しきじ)  460名(めい)の学部(がくぶ)入学(にゅうがく)生(せい)、ならびに53名(めい)の大学院(だいがくいん)入学(にゅうがく)生(せい)、11名(めい)の編入(へんにゅう)学生(がくせい)、1名(めい)の再(さい)入学(にゅうがく)生(せい)の皆(みな)さん、入学(にゅうがく)おめでとうございます。新(あたら)しく東京造形大学(とうきょうぞうけいだいがく)の一員(いちいん)となられた皆(みな)さんを、私(わたし)たちは心(こころ)から歓迎(かんげい)いたします。また、ご家族(かぞく)ならびに関係(かんけい)者(しゃ)のみなさまにも、心(こころ)よりお祝(いわ)い申(もう)し上(あ)げます。

 新入生(しんにゅうせい)のみなさん。今(いま)、私(わたし)はこうして壇上(だんじょう)からみなさんに語(かた)りかけていますが、三十三(さんじゅうさん)年(ねん)前(まえ)、私(わたし)は今(いま)のみなさんと同(おな)じように東京造形大学(とうきょうぞうけいだいがく)の入学(にゅうがく)式(しき)に臨(のぞ)んでいました。本日(ほんじつ)は、学長(がくちょう)というよりひとりの卒業生(そつぎょうせい)として、私(わたし)が学生(がくせい)時代(じだい)に体験(たいけん)したことを少(すこ)しお話(はな)ししてみたいと思(おも)います。

 私(わたし)は高校生(こうこうせい)のときに一(いち)台(だい)のカメラを手(て)に入(い)れました。現在(げんざい)のようなデジタルビデオではなく、8ミリフィルムを使用(しよう)する映画(えいが)カメラです。そのカメラで、自分(じぶん)の身(み)の周(まわ)りのものを撮影(さつえい)するようになると、自然(しぜん)に自分(じぶん)の表現(ひょうげん)として映画(えいが)を作(つく)りたいと思(おも)うようになりました。映画館(えいがかん)で上映(じょうえい)されているような大掛(おおが)かりな映画(えいが)ではなくて、絵画(かいが)のように自由(じゆう)に表現(ひょうげん)するささやかな映画(えいが)を作(つく)りたいと思(おも)い、私(わたし)は東京造形大学(とうきょうぞうけいだいがく)に進学(しんがく)しました。入学(にゅうがく)式(しき)に臨(のぞ)んでいた私(わたし)は、高揚(こうよう)し、希望(きぼう)に溢(あふ)れていたと思(おも)います。

 しかし、大学(だいがく)での生活(せいかつ)が始(はじ)まると、大学(だいがく)で学(まな)ぶことに対(たい)する希望(きぼう)は、他(た)のものに取(と)って替(か)わりました。地方(ちほう)から東京(とうきょう)に出(で)てきた私(わたし)は、時間(じかん)があるとあちこちの映画館(えいがかん)を飛(と)び回(まわ)り、それまで見(み)ることができなかった映画(えいが)を見(み)ていましたが、そこで偶然(ぐうぜん)に出会(であ)った人(ひと)たちの映画(えいが)づくりをスタッフとして手伝(てつだ)うようになりました。まだインディペンデントという言葉(ことば)もなかった時代(じだい)、出会(であ)った彼(かれ)らは無名(むめい)の作家(さっか)たちで、資金(しきん)もありませんでしたが、本気(ほんき)で映画(えいが)を作(つく)っていました。彼(かれ)らは、大学(だいがく)という場所(ばしょ)を飛(と)び出(だ)し、誰(だれ)にも守(まも)られることなく、路上(ろじょう)で、自分(じぶん)たちの映画(えいが)を真剣(しんけん)に追求(ついきゅう)していました。私(わたし)はその熱気(ねっき)にすっかり巻(ま)き込(こ)まれ、彼(かれ)らとともに映画(えいが)づくりに携(たずさ)わることに大(おお)きな充実(じゅうじつ)感(かん)と刺激(しげき)を感(かん)じました。それは大学(だいがく)では得(え)られない体験(たいけん)で、私(わたし)は次第(しだい)に大学(だいがく)に対(たい)する期待(きたい)を失(うしな)っていきました。大学(だいがく)の授業(じゅぎょう)で制作(せいさく)される映画(えいが)は、大学(だいがく)という小(ちい)さな世界(せかい)の中(なか)の出来事(できごと)でしかなく、厳(きび)しい現実(げんじつ)社会(しゃかい)の批評(ひひょう)に曝(さら)されることもない、何(なに)か生温(なまぬる)い遊戯(ゆうぎ)のように思(おも)えたのです。
 気(き)がつくと私(わたし)は大学(だいがく)を休学(きゅうがく)し、数(すう)十本(じっぽん)の映画(えいが)の助監督(じょかんとく)を経験(けいけん)していました。最初(さいしょ)は右(みぎ)も左(ひだり)も判(わか)らなかったのですが、現場(げんば)での経験(けいけん)を重(かさ)ね、やがて、半(なか)ばプロフェッショナルとして仕事(しごと)ができるようになっている自分(じぶん)を発見(はっけん)し、そのことに満足(まんぞく)でした。そして、大学(だいがく)をやめようと思(おも)いました。もはや大学(だいがく)で学(まな)ぶことなどないように思(おも)えたのです。
私(わたし)は大学(だいがく)の外(そと)、現実(げんじつ)の社会(しゃかい)の中(なか)で学(まな)ぶことを選(えら)ぼうとしていました。

 そんなとき、私(わたし)はふと大学(だいがく)に戻(もど)り、初(はじ)めて自分(じぶん)の映画(えいが)を作(つく)ってみました。自信(じしん)はありました。同級生(どうきゅうせい)たちに比(くら)べ、私(わたし)には多(おお)くの経験(けいけん)がありましたから。
しかし、その経験(けいけん)に基(もと)づいて作(つく)られた私(わたし)の作品(さくひん)は惨憺(さんたん)たる出来(でき)でした。大学(だいがく)の友人(ゆうじん)からもまったく評価(ひょうか)されませんでした。一方(いっぽう)で、同級生(どうきゅうせい)たちの作品(さくひん)は、経験(けいけん)も,技術(ぎじゅつ)もなく、破(わ)れ目(め)のたくさんある映画(えいが)でしたが、現場(げんば)という現実(げんじつ)の社会(しゃかい)の常識(じょうしき)にとらわれることのない、自由(じゆう)な発想(はっそう)に溢(あふ)れていました。授業(じゅぎょう)に出(で)ると、現場(げんば)では必要(ひつよう)とはされなかった、理論(りろん)や哲学(てつがく)が、単(たん)に知識(ちしき)を増(ふ)やすためにあるのではなく、自分(じぶん)が自分(じぶん)で考(かんが)えること、つまり人間(にんげん)の自由(じゆう)を追求(ついきゅう)する営(いとな)みであることも、おぼろげに理解(りかい)できました。驚(おどろ)きでした。大学(だいがく)では、私(わたし)が現場(げんば)では出会(であ)わなかった何(なに)かが蠢(うごめ)いていました。
 私(わたし)は、自分(じぶん)が「経験(けいけん)」という牢屋(ろうや)に閉(と)じ込(こ)められていたことを理解(りかい)しました。
「経験(けいけん)という牢屋(ろうや)」とは何(なに)でしょう? 私(わたし)が仕事(しごと)の現場(げんば)の経験(けいけん)によって身(み)につけた能力(のうりょく)は、仕事(しごと)の作法(さほう)のようなものでしかありません。その作法(さほう)が有効(ゆうこう)に機能(きのう)しているシステムにおいては、能力(のうりょく)を発揮(はっき)しますが、誰(だれ)も経験(けいけん)したことがない事態(じたい)に出会(であ)った時(とき)には、それは何(なに)の役(やく)にも立(た)たないものです。しかし、クリエイションというのは、まだ誰(だれ)も経験(けいけん)したことのない跳躍(ちょうやく)を必要(ひつよう)とします。それはある種(しゅ)「賭(か)け」のようなものです。失敗(しっぱい)するかもしれない実験(じっけん)です。それは「探究(たんきゅう)」といってもよいでしょう。その探究(たんきゅう)が、一体(いったい)何(なに)の役(やく)に立(た)つのか分(わ)からなくても、大学(だいがく)においてはまだだれも知(し)らない価値(かち)を探究(たんきゅう)する自由(じゆう)が与(あた)えられています。そのような飛躍(ひやく)は、経験(けいけん)では得(え)られないのです。それは「知(とも)」インテリジェンスによって可能(かのう)となることが、今(いま)は分(わ)かります。
 私(わたし)は、現場(げんば)で働(はたら)くことを止(と)めて、大学(だいがく)に戻(もど)りました。
卒業(そつぎょう)後(ご)、私(わたし)が最初(さいしょ)に制作(せいさく)した劇場(げきじょう)映画(えいが)は決(き)められた台本(だいほん)なしにすべて俳優(はいゆう)の即興(そっきょう)演技(えんぎ)によって撮影(さつえい)しました。先輩(せんぱい)の監督(かんとく)からは「二度(にど)とそんなことはするな」と言(い)われました。何故(なぜ)してはいけないのでしょう? それは「普通(ふつう)はそんなことはしない」からです。当時(とうじ)の私(わたし)があのまま大学(だいがく)に戻(もど)らずに、現場(げんば)での経験(けいけん)によって生(い)きていたなら、きっとこんな非常識(ひじょうしき)な映画(えいが)は作(つく)らなかったでしょう。しかし「普通(ふつう)はそんなことはしない」ことを疑(うたが)うとき、私(わたし)たちは「自由(じゆう)」への探究(たんきゅう)を始(はじ)めるのです。それが大学(だいがく)の自由(じゆう)であり、大学(だいがく)においてこの自由(じゆう)が探究(たんきゅう)されていることによって、社会(しゃかい)は大学(だいがく)を必要(ひつよう)としているといえるのではないでしょうか。

 私立(しりつ)大学(だいがく)には「建(けん)学(がく)の精神(せいしん)」というものがあります。それぞれの学校(がっこう)が、どのような教育(きょういく)、研究(けんきゅう)を目指(めざ)しているのかが語(かた)られた言葉(ことば)です。東京造形大学(とうきょうぞうけいだいがく)は建(けん)学(がく)の精神(せいしん)を「社会(しゃかい)をつくり出(だ)す創造(そうぞう)的(てき)な造形(ぞうけい)活動(かつどう)の探究(たんきゅう)と実践(じっせん)」という言葉(ことば)で表現(ひょうげん)しています。みなさんには「社会(しゃかい)をつくり出(だ)す」という言葉(ことば)がどのように響(ひび)くでしょうか? 何(なに)か大(おお)げさな、リアリティのない言葉(ことば)に思(おも)えるでしょうか? 
 本学(ほんがく)の創立(そうりつ)者(しゃ)、桑(くわ)澤(さわ)洋子(ようこ)先生(せんせい)はデザインや美術(びじゅつ)の今日(きょう)的(てき)な意味(いみ)について次(つぎ)のように発言(はつげん)しています。
「それは単(たん)なる自己(じこ)表現(ひょうげん)というより、社会(しゃかい)に責任(せきにん)を取(と)る表現(ひょうげん)であり、デザイナー美術家(びじゅつか)は、現代(げんだい)の社会(しゃかい)や産業(さんぎょう)が孕(はら)む矛盾(むじゅん)を解明(かいめい)する文明(ぶんめい)的(てき)な使命(しめい)を持(も)たなくてはならない」
 私(わたし)自身(じしん)、映画(えいが)制作(せいさく)というささやかな造形(ぞうけい)活動(かつどう)が、「社会(しゃかい)に責任(せきにん)を取(と)る表現(ひょうげん)」であるかどうか、はなはだ心(こころ)もとありません。私(わたし)たちひとりひとりはちっぽけな存在(そんざい)です。私(わたし)ひとりが存在(そんざい)しなくても、社会(しゃかい)はつつがなく進行(しんこう)するであろうと確信(かくしん)できます。私(わたし)たちが経験(けいけん)を通(とお)して実感(じっかん)することのできる社会(しゃかい)は、ごく限(かぎ)られたものでしかありません。世界(せかい)にはさまざまな問題(もんだい)があり、遠(とお)い国(くに)で内戦(ないせん)があり、飢餓(きが)があり、苦(くる)しみがあることを私(わたし)たちは知(し)っていますが、私(わたし)という小(ちい)さな存在(そんざい)が、いったいそのような広大(こうだい)な社会(しゃかい)とどのように関(かか)われるだろうか?と思(おも)わず立(た)ち止(ど)まってしまうかも知(し)れません。しかし、社会(しゃかい)は私(わたし)たちひとりひとりのこの小(ちい)さな現実(げんじつ)と無関係(むかんけい)に、どこか別(べつ)の場所(ばしょ)にあるのではありません。
 
 これからみなさんは、作品(さくひん)や課題(かだい)の制作(せいさく)に取(と)り組(く)みます。自分(じぶん)の中(なか)にあるアイデアが浮(う)かぶ、自分(じぶん)が追求(ついきゅう)している美(うつく)しいフォルムが浮(う)かぶ、果(は)たしてそれが本当(ほんとう)に良(よ)いアイデアなのか、本当(ほんとう)に美(うつく)しいのか自信(じしん)はないかもしれない。その葛藤(かっとう)は創造(そうぞう)につきまとう孤独(こどく)な作業(さぎょう)ですが、それがあなたの内的(ないてき)なアイデアに留(と)まっている以上(いじょう)、誰(だれ)にも意味(いみ)を持(も)ちません。しかし一旦(いったん)それを表現(ひょうげん)し、形(かたち)にしてしまうと、あなたの追求(ついきゅう)したアイデアは具体(ぐたい)的(てき)な人間(にんげん)関係(かんけい)の中(なか)に存在(そんざい)することでさまざまな視線(しせん)に曝(さら)され、その意味(いみ)を試(ため)されることになる。そしてそれは単(たん)なる物(もの)や形(かたち)に留(と)まらず、人々(ひとびと)や社会(しゃかい)の関係(かんけい)性(せい)の中(なか)で動的(どうてき)な作用(さよう)を生(う)み出(だ)してゆくのです。たとえそれが、ささやかな人間(にんげん)関係(かんけい)の中(なか)であっても、確実(かくじつ)にそこに社会(しゃかい)は形成(けいせい)されます。この広大(こうだい)な世界(せかい)を、全(すべ)て見渡(みわた)せる人(ひと)は誰(だれ)ひとりとしていません。私(わたし)たちはみなこの地上(ちじょう)で、限(かぎ)られた関係(かんけい)の中(なか)で生(い)きており、全(すべ)てを見渡(みわた)すことなどできないところで生(い)きています。私(わたし)たちの小(ちい)さな関係(かんけい)が編(あ)み目(め)のように広(ひろ)がって、関係(かんけい)しあいながら世界(せかい)が作(つく)られている。デザインやアートはその具体(ぐたい)的(てき)な関係(かんけい)の中(なか)に、運動(うんどう)を作(つく)り出(だ)し、働(はたら)きかけてゆく人間(にんげん)の行為(こうい)です。私(わたし)たちは、経験(けいけん)することのできないその広大(こうだい)な世界(せかい)に思(おも)いを巡(めぐ)らし、想像(そうぞう)することしかできませんが、その想像(そうぞう)力(りょく)こそが世界(せかい)なのではないでしょうか。
 「造形(ぞうけい)」という言葉(ことば)を私(わたし)たちは単(たん)に「ものを作(つく)ること」と捉(とら)えてはいません。たとえば、みなさんがデザイナーとなり、エアコンをデザインしてそれが10万(いちぜろまん)台(だい)売(う)れれば、それらが毎日(まいにち)消費(しょうひ)する膨大(ぼうだい)な電力(でんりょく)を必要(ひつよう)とする社会(しゃかい)を、必然(ひつぜん)的(てき)に生(う)み出(だ)してしまうことになる。アートも作品(さくひん)それ自体(じたい)が普遍(ふへん)的(てき)な価値(かち)を持(も)つのではなく、それが人々(ひとびと)の精神(せいしん)に作用(さよう)する働(はたら)きによって存在(そんざい)するのだと私(わたし)は思(おも)います。
 
 一昨年(いっさくねん)に起(お)きた東日本(ひがしにっぽん)大震災(だいしんさい)と原発(げんぱつ)事故(じこ)によって、あるいはそれ以前(いぜん)から、私(わたし)たちの社会(しゃかい)のこれまでのシステムや作法(さほう)がもはや機能(きのう)しないことが露呈(ろてい)しました。私(わたし)たちはこれまでの社会(しゃかい)において当然(とうぜん)とされてきた作法(さほう)を根本(こんぽん)から見直(みなお)さなくてはならない時(とき)を迎(むか)えていると言(い)えます。現実(げんじつ)社会(しゃかい)は、短期(たんき)的(てき)な成果(せいか)を上(あ)げることに追(お)いかけられ、激(はげ)しく変化(へんか)する経済(けいざい)活動(かつどう)の嵐(あらし)の中(なか)で、目(め)の前(まえ)のことしか見(み)えません。これまでの経験(けいけん)が通用(つうよう)しなくなっている今(いま)ほど、大学(だいがく)における自由(じゆう)な探究(たんきゅう)が重要(じゅうよう)な意味(いみ)を持(も)っている時(とき)はないと思(おも)います。
 
この里山(さとやま)の自然(しぜん)に囲(かこ)まれた、小(ちい)さなキャンパスから、私(わたし)たちは世界(せかい)へと思(おも)いを巡(めぐ)らし、想像(そうぞう)を広(ひろ)げましょう。それが,たとえドン?キホーテのようであっても、私(わたし)は私(わたし)たちの小(ちい)さな創造(そうぞう)行為(こうい)が、必(かなら)ず世界(せかい)とつながっていると確信(かくしん)したいと思(おも)います。
 入学(にゅうがく)おめでとうございます。共(とも)によりよい社会(しゃかい)をつくり出(だ)す探究(たんきゅう)を始(はじ)めましょう。

平成(へいせい)25年(ねん)4月(しがつ)4日(にち)
東京造形大学(とうきょうぞうけいだいがく)学長(がくちょう) 諏訪(すわ)敦彦(あつひこ)

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