第21課 火山と温泉
(1)
日本の国土は、地球上の陸地のわずか400分の1にすぎない。しかし、その狭い国土になんと世界の火山の10分の1が集まっている。日本の風土を考えるうえで、これらの火山の存在を無視することはできない。 火山が多くて困るのは、地震が頻繁に起こったり、火山の噴火によって被害を受けたりすることである。例えば、九州の鹿児島市では、桜島という火山が噴き上げる火山灰のために、市民の生活や農作物がしばしば被害を受ける。最近では、1986年11月に、東京の南にある伊豆大島で、三原山という火山が噴火して。溶岩が流れ出し、島の住民が一時本州に避難するという騒ぎがあった。 しかし、困ることがある一方で、逆にありがたいこともある。それは、火山の恵みである温泉が日本のいたる所に湧き出ていることである。 温泉の湯には、硫黄やカルシウムなどさまざまな成分が含まれていて、病気やけがを治す働きがある。だから、日本では昔から「湯治」と言って、病気やけがを治すために、よく温泉を利用した。 温泉のある所は、美しい山や川など、自然の景観にも恵まれているから、「湯治」は昔の人にとって数少ない娯楽の一つでもあった。山の緑を眺めながら、あるいは川の流れる音を聞きながら、のんびりと温泉につかるのを、日本人はこのうえない楽しみとしてきたのである。 日本人は世界でもとりわけ風呂好きな民族と言われているが、温泉が日本人の風呂好きという性格を作ったと言っても過言ではないだろう。 温泉は、湯に入って疲れをいやしたり病気を治したりできるだけではない。温泉の熱を使って、野菜を育てたり、魚を飼ったりすることもできる。さらに、最近は、温泉の熱を利用した地熱発電の研究も行われている。地熱発電は技術的にまだまだ難しい問題があるようだが、温泉の熱をエネルギー源にしようという考えは、火山の多い日本にとってたいへん魅力的である。 (2)
王 : 今度佐藤さんと箱根の温泉に行くんです。 田中 : そうですか。それはいいですね。 王 : 温泉だから、やっぱり火山があるんでしょう。火山も見てみたいと思ってる んですが。 田中 : もちろんありますよ。噴火した火口の跡があって、今でも水蒸気が噴き出し てるんです。 王 : ぜひ行ってみたいですね。でも、急に噴火しないでしょうか。このあいだ、 伊豆大島の三原山が噴火したでしょう。 田中 : だいじょうぶですよ。箱根は三原山ほど火山の活動が活発じゃあないから、 心配することはありません。 王 : それなら安心ですね。でも、このあいだの三原山の噴火にはびっくりしまし た。 田中 : そうでしょうね。実は、ぼくも、まさかあんなに大きな騒ぎになるとは思わ なかったんです。火山の噴火なんてめったにないんですが、日本は火山が多 いから油断はできないですね。けれど、火山のおかげで得をしてることもあ るんですよ。 王 : 温泉が豊富なのは火山のおかげですものね。 田中 : ええ。それに、火山の近くは、湖があったりして、景色のいい所が多いんで す。だから、日本の国立公園には、たいてい火山と温泉があるんですよ。
第22課 贈り物
(1)
日本には、お中元とお歳暮という贈り物の習慣がある。 お中元もお歳暮も、もともと神や仏に供える米や餅、魚などを親しい人に贈る、という宗教行事だった。それが、しだいに宗教行事としての意味を失い、現在では、世話になっている人に感謝のしるしとして贈り物をする、という習慣になっている。 個人の間はもとより、会社の間でも盛んに贈り物のやりとりが行われる。贈り物に使われる品も、砂糖やお茶などの食料品、食器類や衣類などの日用品と、実に多種多様である。そのため、毎年、7月のお中元の時期と12月のお歳暮の時期になると、全国のデパートや商店にさまざまな贈答品が並べられ、店内はそれを買い求める客でごった返す。 お中元にしろお歳暮にしろ、本来の宗教的な意味はなくなり、今では、多くの人がただ社交のために贈っているだけである。「このような習慣は廃止しよう。」という声もあるが、現実には一向になくなる気配はない。それどころか、外資系の会社に対しても、「郷に入っては郷に従え。」とばかりに、中元?歳暮の習慣を取り入れたらどうかと、デパートが働きかけるほどである。 ところで、贈り物と言えば、最近、おもしろい贈り物の習慣ができた。2月14日、キリスト教の聖バレンタインデーに、女性が好きな男性にチョコレートを贈る、という習慣である。こんな習慣は、キリスト教の国々にもない。 最初は、若者の間で始まった、このチョコレートのやりとりは、会社などを中心に、今や年齢に関係なく広まりつつある。 バレンタインデーにチョコレートを贈るという習慣は、製菓会社がチョコレートの売り上げの増加をねらって作り出したものらしい。製菓会社の販売作戦にまんまと乗せられたと言えばそれまでだが、贈り物の好きな人間の心理をうまくつかんだ製菓会社の作戦勝ちというところであろうか。
(2)
吉田夫人 : ごめんくださいませ。 田中夫人 : はい。まあ、これはこれは、吉田さんの奥様。 吉田夫人 : いつも主人がたいへんお世話になりまして。 田中夫人 : いいえ、こちらこそ。よくいらっしゃいました。さあ、どうざ、お上が りください。 吉田夫人 : いえ、ここで失礼させていただきます。これはつまらない物でございま すが、皆様に召し上がっていただければと存じまして。 田中夫人 : まあ、それはご丁寧に恐れ入ります。どうかこんなご心配なさらないで ください。 吉田夫人 : これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。どうもお忙しいところ をおじゃまいたしました。 田中夫人 : まあ、何のおかまいもいたしませんで。 吉田夫人 : ご主人様にどうかよろしくお伝えくださいませ。では、失礼いたします。 田中夫人 : そうですか。ご丁寧にありがとうございました。では、ごめんください ませ。 第23課 おいしい生活
(1)
日本が広告に費やしている費用は、今や国民総生産の1%以上だそうだ。およそ3兆円という莫大な金額である。テレビのコマーシャルをはじめとして、新聞や雑誌の広告欄、看板やポスターなど、私たちの身の回りは広告だらけだ。これだけ多くの広告が次々と作られているのだから、広告費がかかるのも当然である。 広告と言えば、しばらく前に「おいしい生活」という広告があった。「おいしい」という言葉は普通食べ物に用いるので、「おいしい生活」は正しい日本語の表現とは言えない。これは、あるデパートが出した広告の宣伝文句なのである。 だが、そう言われても、どうしてこれがデパートの広告なのか、と首をかしげる人がいるにちがいない。実際、これを初めて目にした時は、だれもが「おやっ」と思った。広告であることはわかるが、何の広告なのかよくわからないというのが、最初の印象だった。しかし、意味のよくわからない広告だからこそ、多くの人が興味をそそられて、これに注目したのである。 「おいしい生活」がポスターやテレビに登場するやいなや、それはたちまち人々の話題をさらった。おかげで、この広告を出したデパートの名前が売れたことは言うまでもない。 この出来事は、大胆で奇抜な広告が人気を集める時代であることを強く人々に印象づけ、新しい広告の流行を作り出した。 ちなみに昔はどうだったかと言うと、覚えやすい文句で、何の宣伝かだれにでもすぐわかる広告がほとんどだった。しかし、現代では、あたりまえの宣伝文句ではとうていはやらない。もっと人を「おやっ」と思わせるような広告が流行になっているからだ。 このような流行は商品広告だけではない。公共広告も、以前は「暴力追放」とか「お年寄りを大切に」といった、わかりやすい呼びかけがほとんどだったが、最近では、大胆で奇抜なものに変わってきた。 金銭的な利益に結び付かない公共広告も、広告であるからには、時代の流行に無関心ではいられないのだろう。
(2)
張 : あれ。これは映画のポスターかな。 山田 : ああ、これは地下鉄の公共広告のポスターだよ。「独裁者」っていう、チャ ップリンの映画のパロディーさ。 張 : ふうん。「独裁者」と書いてあるね。 山田 : つまり、座席を独り占めしないで、お互いに譲り合って座るようにしようっ ていう広告なんだよ。 張 : へえ、おもしろいねえ。でも、そういうふうに説明されないと、ぼくらには わからないなあ。 山田 : そうだろうね。最近の日本では、この広告みたいにちょっと奇抜なものが多 いんだよ。まあ、一つの流行だろうな。広告っていうのは、いいにつけ悪い につけ、時代の流行に影響されるからね。 張 : なるほど。公共広告も、時代の流行には無関心ではいられないわけだね。 山田 : まあ、日本人は流行に振り回されているんじゃないかという気がしないでも ないけど。 張 : だけど、次々と作られる流行が、社会に活力を与えているのは確かだと思う よ。
第24課 鶴の恩返し
昔、ある所に、貧乏な若者がおりました。 ある日のことです。若者が田を耕していると、体に矢が刺さった一羽の鶴が舞い降りて来ました。鶴は、まるでこの矢を抜いてくれと言わんばかりに鳴いていました。「かわいそうに。よしよし、少しのしんぼうだよ。」 若者は、そう言って矢を抜いてやりました。 鶴は、まるでおじぎをするかのように、何度も首を振りながら、うれしそうに飛んで行きました。 その三日あとの夜のことでした。若者が寝ようとしていると、表の戸をトントンとたたく音がしました。 「いったいこんな時間にだれだろう。」 若者が戸を開けると、そこには、目もくらむばかりに美しい娘が立っていました。 「道に迷っているうちに、夜になってしまいました。申しわけありませんが、今晩ここに泊めていただけないでしょうか。」 「それはお困りでしょう。こんな狭い所でよかったら、どうぞお泊まりください。」 若者は、そう言って、その娘を泊めてやりました。 ひと晩だけかと思ったら、娘は、その次の日も泊めてくれと言いました。若者が、よかったら何日でも泊まっていきなさいと言うと、娘は、次の晩も、またその次の晩も泊まりました。そして、とうとう若者の嫁にしてくれと言い出しました。 若者は、 「貧乏なおれの嫁になっても、苦労するばかりだ。」 と言いましたが、娘は、 「どんなに貧乏でもかまいません。一生懸命働きますから、どうか嫁にしてください。」 と頼みました。もちろん、若者にとってこんなうれしいことはありません。喜んでその娘を嫁にしました。 娘は、美しく、優しく、そして働き者でした。若者は、まるで夢でも見ているような幸せな気持ちでした。 ある日のこと、娘は、若者に、機を織る部屋を作ってほしいと言いました。若者が機を織る部屋を作ってやると、今度は、 「どうかわたしが機を織ってるところを決して見ないでください。」 と言いました。なぜか尋ねると、 「わけは言えません。とにかく絶対に見ないと約束してください。約束を破ると、わたしはあなたの所にいられなくなります。」 と、強い調子で言いました。 若者が絶対に見ないと約束すると、娘はその部屋に入って機を織り始めました。やがて部屋から出て来た娘は、少し疲れた様子でしたが、にっこりと笑って、織り上がった布を若者に見せました。それは、若者がこれまでに見たこともないきれいで、立派な織物でした。 「これを町へ持って行って、売ってください。きっと高く売れるでしょう。」 娘にそう言われて、若者はそれを町へ売りに行きました。すると、驚いたことに、町いちばんの金持ちが、信じられないような大金でその織物を買ってくれました。 若者はうれしくてたまりません。家に帰ると、娘に、もう一回織ってくれ、と頼みました。娘はうなずいて、また部屋に入って機を織り始めました。 ふと、若者は不思議に思いました。 「どうしてあんなにきれいで立派な織物ができるのだろう。ちょっと見てみたいものだ。」 若者は、もし見たらあなたの所にはいられなくなる、と言った娘の言葉を思い出して、じっとがまんしました。けれども、とうとうがまんができなくなって、小さなふし穴から部屋の中をのぞきました。 「ありゃりゃ……!」 若者は、のぞいてびっくりしました。部屋の中にいるのは、あのきれいで優しい娘ではなく、一羽の鶴でした。鶴が、自分の羽を抜いては織り、抜いては織りしているのです。 若者に見られてしまった鶴は、悲しそうに言いました。「見ないでくださいと言ったのに、あなたは見てしまいました。わたしは、以前あなたに助けていただいた鶴です。恩返しのためにあなたの所に来ましたが、見られてしまった以上、もうここにいるわけにはいきません。」 すう言うと、鶴は、織物を半分織りかけたまま、遠い空へ飛んで行ってしまいました。 悲しそうな鶴の鳴き声だけが、夕焼けの空にいつまでも響いていました。
第25課 大陸は動く
ここに、1枚の地図がある。大西洋を中心に、東側にアフリカ大陸とヨーロッパ、西側に南北アメリカ大陸が描かれている。この地図をじっくり眺めてみよう。何か気づくことはないだろうか。 試しに、アフリカの西海岸と南アメリカの東海岸とを合わせてみよう。二つの海岸線は、まるではめ絵パズルのように、見事に重なり合ってしまうではないか。こんな不思議なことが、偶然に起こるものだろうか。 今から70年余り前、ドイツの気象学者アルフレッド=ウェゲナーは、この海岸線のなぞに気づき、強く興味をそそられた。なぜ、こんなことが起こったのだろうか。ある時、ウェゲナーの頭に大胆な考えがひらめいた。大西洋の東と西の大陸は、もともとくっついていたのではないか。それが二つに分かれて移動し始め、今では何千キロメートルも離れてしまったのではないか。 これは、あまりにも常識を超えた、とっぴな考えであった。けれども、研究を進めるにつれて、ウェゲナーは、この考えの正しさにしだいに確信を深めていった。 もし、もともと一つの大陸であったのなら、大昔の古い地層は、両方の大陸でつながっているはずである。調べてみると、アフリカの昔の山脈が、南アメリカの南部につながっていることがわかった。地層の重なり方がぴったり一致するだけでなく、遠く離れた二つの大陸の同じ地層から、同じ種類の化石が発見された。また、ある種類のカタツムリは、世界中でも、ヨーロッパの西部と北アメリカの東部にしか住んでいないこともわかった。カタツムリが、大西洋を泳いで渡ることなどできるだろうか。 こうして、ウェゲナーの研究は、世界各地の動物や植物、古い化石、昔の氷河の跡などへと、次々に広がっていった。その結果た、アフリカと南アメリカだけでなく、現在海を隔てて離れ離れになっているすべての大陸は、大昔は一つにつながっていたのだ、と考えるようになった。このひとつながりの大きな大陸は、「パンゲア」と呼ばれている。パンゲアとは、「すべてが一つの大陸」と言う意味がある。 ウェゲナーが唱えたこの「大陸移動説」は、世界中の人々を驚かせ、学者たちの議論の的となった。 しかし、多くの学者たちは、この説に賛成しなかった。重く大きな大陸が、どのようにして何千キロメートルも航海できたのか、その原動力がはっきりしなかったからである。 ウェゲナーが出したいくつかの仮説は、どれも大陸を動かせるような大きな力ではなく、皆消えていった。結局、その原動力を探し出すことができず、わずか20年ののちには、大陸移動説はすっかり忘れ去られてしまった。 それからまた20年、1950年代になると、わたしたちが住む地球に関する観測や研究が急速に発展してきた。そして、海底や地球の内部の様子、地震の原因などが少しずつ明らかになるにつれて、一度見捨てられた大陸移動説が、再びよみがえってきたのである。 大陸を動かす原動力は、何だったのだろうか。その前に、目を海底に向けてみよう。大西洋の真ん中には、ほぼ南北に、海底山脈がえんえんと走っている。長さにして地球の一周の約3分の1、高さ3千メートルに達する大山脈である。その頂に沿って、たくさんの地震が起こっている。また、山脈の近くの海底の温度を調べてみると、他の場所よりもはるかに高いことがわかった。海底山脈の所では、何かたいへんな出来事が起こっているにちがいない。 実は、海底山脈の真下には、岩石がどろどろに溶けた熱いもの(マグマ)が湧き上がってきているのである。このマグマは、海底まで上がってくると、やがて冷え固まって、岩盤となる。もう少し深い所では、完全には冷え固まらず、海底の岩盤の下を左右に分かれて流れていく。固まりかけの岩石は、ゆっくりと、まるで液体のように流れることができるのである。この流れに乗って、海底の岩盤は左右に広がりながら動いていく。こうして、海底山脈の下では、次々に新しい岩盤が生まれ、送り出されているのである。 海底の岩盤の上にある大陸は、この広がる岩盤は乗って運ばれ、だんだん離れていく。大陸を動かす原動力は、動く海底の岩盤だったのである。 海底の岩石ができた年代を調べてみると、海底山脈に近い所では若く、遠く離れるにつれて、しだいに年をとっている。1年間にわずか数センチメートルという非常にゆっくりとした速度ではあるが、海底は確実に動いている。 やはり、アフリカと南アメリカとは、もとは一つの大陸だったのだ。それだけでなく、地球のすべての大陸は、ウェゲナーが言ったように、ただ一つの大陸、パンゲアだったにちがいない。1枚の地図からウェゲナーの頭にひらめいた夢のような考え、大陸移動説は、科学の進歩によって見事に証明されたのである。
第26課 植物のにおい
植物には、それぞれ固有のにおいがある。中でも、ワサビ?ニンニク?ニラ?シソ?レモンなどは、特に強いにおいを持っている。いろいろな生物の本を調べてみると、植物のにおいの中で、花のかおりについては、「昆虫を呼び寄せて、花粉をおしべからめしべに運ばせるのに役立つ。」と説明されている。しかし、葉や茎、根や実から出るにおいの役割については、ほとんど書かれてはいない。植物が体から出すにおいには、どんな働きがあるのだろうか。そのことを確かめるために、次のような実験をしてみた。 まず、二つの管瓶を用意し、一方の管瓶には、食パンだけを入れて密封した。もう一方の管瓶には、食パンとともに、少量のおろしワサビ(2グラム)を入れて密封した。そして、摂氏25度の部屋の中で観察を続けた。すると、何も入れていない管瓶の中の食パンには、3日目ごろから、いろいろな色のかびが生えてきたが、ワサビを入れた管瓶の中の食パンには、10日たっても20日たても、かびは生えなかった。 ワサビの代わりに、同量のニンニクのおろしたのや2、3ミリメートルの大きさに刻んだニラの葉を使ってみたが、やはりかびは生えなかった。 次に3本のガラスのミリンダー(500ミリリットル)の底に、それぞれ、おろしワサビ、おろしニンニク、レモンの皮の切片を置き、その上に網を敷いてから、ミツバチを入れてみた。ふたをして行動を観察すると、植物を置かない時に、2時間たっても元気に飛んだりはい回ったりしていたミツバチが、1分後にはもう飛ぶ力を失って、網の上に落ち、2分後にはひっくり返って動かなくなった。同量のニンニクの場合は5分、レモンの皮の場合は14、5分後に、ミツバチは完全に動く力を失った。 これらの試験結果からみると、かびの繁殖を抑えたり、ミツバチの運動能力を失わせたりしている原因は、植物のにおいにありそうだ。 だが、ほかにも原因が考えられる。それは、植物の切片が呼吸をしているため、シリンダーの中の酸素が不足するのではないかということである。このことを調べるため、植物を入れたミリンダー内網の上に、脱臭作用を持つ活性炭をガーゼに包んで載せておいた。すると、ミツバチは、植物を入れない時と同じように、いつまでも元気に動いていた。これで、ミツバチが動けなくなった原因は酸素の不足ではなく、植物のにおいにあることがはっきりした。また、かびの繁殖についても同じことが確かめられた。 その後、これらの植物のにおいは、他の小さな動物たち、例えばハエ?ゴキブリ?イモリ?ネズミなどにも、影響を与えることが確かめられた。また、シン?ダイコン?タマネギ?スギなどのにおいも、かびの繁殖を抑えたり、小動物を弱らせたりする作用を持つことがわかった。 さらに、植物のにおいは、他の植物の生長にも影響を与えることがわかってきた。発芽したばかりのモヤシマメを、タマネギニンニクのにおいのする所に置くと、まっすぐ伸びなくなったり、生長が止まったりした。また、生長中のツバキの花粉に、タマネギのにおいを当てると、生長が完全に止まったあと、花粉管の先端が風船のように膨れてきた。これは、ちょうど花粉が大量の放射線を浴びた時の状態とよく似ていた。 植物は、太陽の光を用いて、自分でデンプンなどの栄養分を合成しているので、動物のように他の生物を食べる必要はない。しかし、自分の体を食べに来る動物からは身を守る必要がある。植物を食べに来た動物は、その植物の周りに自分の害になるようなにおいが立ちこめていると、敬遠して逃げ出すだろう。無理に植物の体に食いついたりすると、強いにおいの作用で動けなくなってしまう。また、枝が折れたり葉がちぎれたりした時、においは、傷口から侵入しようとする細菌類を撃退する役割を果たす。さらに、その植物が生長するために、周りに生える他の植物が繁殖するのを抑えるのにも役立つ。植物のにおいは、彼らが進化の過程で身に付けた、自衛のための武器の一種だったのである。 このような作用を持つ植物のにおいを、人間の病気の治療や予防、食品の保存に活用できないだろうか。しかし、そう考えるまでもなく、人間は昔から、においを生活の中で利用してきた。ゆず湯やしょうぶ湯は、体に良いと言い伝えられている。笹餅、ちまき、桜餅などは、においを食品の保存に利用した例えであろう。また、刺し身にワサビ?シン?ダイコンを添えるのも、風味を味わうとともに、植物のにおいを殺菌や防腐に役立ててきた、生活の知恵であると考えられる。 第27課 案内状の書き方
日本に留学している世界各国の留学生が、協力して音楽会を開くことになりました。王さんは、この「留学生音楽フェスティバル」の実行委員会のメンバーで、フェスティバルの案内状を作る係りになりました。そこで、案内状の書き方について、鈴木先生に相談しました。
王 : 先生、少し教えていただきたいんですが。 鈴木 : どんなことですか。 王 : 今度、「留学生音楽フェスティバル」の案内状を作ることになったんですが、 案内状というのはどのように書いたらいいんでしょうか。 鈴木 : 案内状のような手紙の場合は、ある程度決まった形式がありますから。その 形式を踏まえて書けば、それほど難しくはありませんよ。 王 : 何か参考になるようなものはないでしょうか。 鈴木 : ちょうど今、わたしのところに2通の案内状がありますよ。講演会と展示会 の案内状ですがね。 王 : ちょっと見せていただけませんか。 鈴木 : ええ、どうぞ。これです。
「国語?国文学会50周年記念講演会」のお知らせ
謹啓 時下ますます御清栄のこととお慶び申し上げます さて、国語?国文学会も、発足以来、ここにめでたく50周年を迎える運びとなりました。つきましては、50周年記念行事の一つといたしまして、海外、特にアジア地域の日本語および日本文学研究者を招き、下記の要領で、講演会と懇親会を催したいと存じます。 御多忙とは存じますが、なにとぞ御出席くださいますよおお願い申し上げます。 敬具 記 1.日時 1989年3月15日 午後1時~午後5時(講演会) 午後5時~午後7時(懇親会) 2.場所 国際文学研究所 講堂 3.懇親会参加費用 3000円
1989年2月1日 国語?国文学会50周年記念行事実行委員会
鈴木一郎先生
なお、御参加の有無を、来る2月28日までに、同封のはがきにてお知らせください。 1989年2月20日
鈴木一郎先生 東京都港区西麻布12-3-24 財団本人 国際教育機器普及協会
「世界の教育機器?教材フェア」開催のお知らせ
拝啓 日一日と春めいてくるこのごろ、皆様には御健勝のことと拝察申し上げます。 さて、ことたび、当協会では、世界各国の優れた教育用機器ならびに教材を一堂に集め、「世界の教育機器?教材フェア」を開催することとなりました。 幼児教育用の機器から、幅広く展示するとともに、世界各国ユニークなテキスト類、文房具類も合わせて展示即売いたします。 この機会にぜひ御高覧いただき、教育現場にお役立てくださいますよう御案内申し上げます。 敬具 記 1.日時 1989年3月1日より3月20日まで 午前10時~午後5時 2.場所 東京晴海国際見本市第5会場 第28課 腕時計
田中 : すみません。腕時計がほしいんですが。 店員 : はい、こちらに紳士持ちの腕時計がございます。 田中 : ずいぶんありますね。どれがいいかな。 店員 : そうですね。こちらのデジタル時計などいかがでしょうか。時刻とカレンダ ーが表示されて、見やすいですし、アラームの機能も付いております。 田中 : ボタンが3つありますね。取り扱いが面倒じゃないですか。 店員 : いえ、決してそんなことはございません。使い慣れるととても便利ですよ。 田中 : そうですか。じゃあ、それをください。 * 取り扱い説明書 この時計は、右の図のように、時刻とカレンダーが一括して表示されるほか、アラー ムの機能もあります。Aが表示の切り替えのボタンです。Aのボタンを押すたびに、アラーム、時刻合わせと表示が変わります。 以下にそれぞれの機能を説明しましょう。 「アラーム」 あらかじめ設定した時刻を音で知らせる、アラームの機能があります。 Aのボタンを一度押すと、カレンダーの表示がアラームの表示に変わります。アラー ムの時刻を修正したい時は、Bのボタンを押してください。Bは修正する箇所を選択するボタンです。一度押すと、時の単位の数字が点滅し、もう一度押すと、分の単位の数字が点滅します。 Bのボタンで修正したい箇所を選んだら、今度はCのボタンを押して、数字を変えま す。Cは、数字を変えるボタンで、押すたびに数字が一つずつ進み、押し続けると数字が早く進みます。 時刻を設定したら、BとCのボタンを同時に押してください。そうすれば、アラームがセットされます。アラームを解除したい時は、もう一度BとCのボタンを同時に押してください。鳴っているアラームを止めたい時は、ABCいずれかのボタンを押してください。どのボタンでもかまいません。ボタンを押さなければ、アラームは20秒間鳴り続けます。 「時刻合わせ」 時刻やカレンダーを修正したい時は、Aのボタンをもう一度押してください。そうすると、秒の単位が点滅します。次にBのボタンを押して修正したい箇所を選択します。 Bのボタンを押すたびに点滅する箇所が、秒から、分、時、曜日、月、日と変わります。修正する箇所を選択したら、Cのボタンを操作して数字を変えます。 以上がこの時計の取り扱いの要領ですが、ボタンの操作を間違えても壊れる心配はありません。また、防水加工を施しておりますので、時計をしたまま水に入ってもだいじょうぶです。落としたり強くぶつけたりしない限り、壊れることはありませんし、狂うこともありません。ただし、温度の高い所や、逆に温度の低い所に長時間置くことは避けてください。表示が不鮮明になったり、数字の変わり方が置くなったりする恐れがあります。 なお、この時計の保証期間は2年間です。保証期間中の修理は、原則として無料ですので、取り扱い店に御相談ください。 第29課 都市の住宅事情
(1) 「日本人はうさぎ小屋に住んでいる。」 これは、EC(ヨーロッパ共同体)が日本についてまとめた報告書にあった言葉だ。この言葉を聞いた時は、さすがに「いくら日本の住宅が狭いからといっても、そこまで言うことはないだろう。」と、腹を立て人が多かった。けれども、日本の住宅事情の悪さを、あらためて認識させられたことも事実である。 現在も日本の住宅事情はほとんど変わらない。特に、大都市は相変わらずの住宅難だ。都会では自分の家を持つことがそもそも難しい。 「アパートや借家の家賃を払うのに精いっぱいで、とても自分の家を持つだけの経済的なゆとりがない。」というのが、都会で暮らす人たちの率直な感想だろう。 最近は、一戸建ての住宅よりも、分譲マンションなどの集合住宅を選ぶ人が増えているという。新しく家を建てられるような土地が残っていないのだから、それもしかたがないことだろう。 もちろん、もっと広い家に住みたいと、だれもが切実に思っている。「庭付き一戸建ての家に住みたい。」というのが、多くの人たちの夢だ。しかし、庭付きの家を買えば買ったで、困ることがある。庭付きの家が買えるような所は郊外しかないので、それだけ交通の便が悪くなるからである。東京では、郊外の自宅から片道2時間くらいかけて都心の会社へ通勤しているサラリーマンは珍しくない。いくらマイホームを持ったといっても、毎日、満員電車に4時間も揺られて往復するのでは、通勤だけで疲れてしまうだろう。 このような住宅難は、都心に人口が極端に集中しているために起こる現象である。なにしろ1平方キロ当たり1万人以上という人口密度だから、都心の住宅が不足するのも当然である。 都心が人口の過密に悩まされている一方で、皮肉なことに、農村は過疎という現象に悩まされている。大都市に人口が集中するため、農村の人口が少なくなるという現象である。過疎化の激しい所では、一つの村のものがなくなってしまった所すらある。 最近は、官庁や企業を都会ばかりに集めず、地方に分散させようという計画が真剣に検討されている。また、青年たちの意識が変わり、都会とり農村で生活したいという青年が徐々に増えている。都市の過密と農村の過疎という矛盾に、多くの人が気づき始めた証拠だろう。 (2)
田中 : やあ、吉田君。家を買ったんだって。おめでとう。 吉田 : ありがとうございます。おかげさまで、なんとか自分の家を持つことができ ました。今度、ぜひ遊びに来てください。 田中 : うん。そのうちにお祝いに伺うよ。ずいぶん立派なお宅だそうだね。 吉田 : いえ、それほどでもないですよ。ただ、家を買うなら、庭があってゆったり した家がいいと思って選びましたから、広いことは広いんです。でも、郊外 ですから、通勤するのがたいへんで…。 田中 : 会社まで、どれくらいかかるの。 吉田 : 2時間とちょっとです。だから、毎朝6時半には家を出なきゃならないんで すよ。ちょっと朝寝坊でもしようものなら、確実に遅刻ですね。 田中 : それじゃあ、睡眠不足になってしまうだろう。 吉田 : ええ。最近はいつ眠くてしようがないんです。でも、東京のサラリーマンは、 みんな同じような苦労をしてるわけですからね。しかたないですよ。 田中 : そうだなあ。なるべく無理をしないで、休みの日はゆっくり寝るようにした ほうがいいね。せっかく家を買っても、体を壊したら、何にもならないから なあ。
第30課 日本人と魚
(1)
言葉というものは、生活と深いかかわりを持っている。 動物のラクダは、日本語では「ラクダ」という単語しかない。ところが、アラビア語には、同じラクダを指すのにも、「人が乗るためのラクダ」「荷物を運ぶためのラクダ」など、それぞれ違う単語があるという。砂漠に生きる人々にとってラクダは生活に欠かすことのできないものだから、それだけ言葉も細かく使い分けるようになったらしい。 では、日本語ではどうだろうか。そう考えた時、思い当たるのは魚である。 例えば、ブリという魚は、成長の段階に応じて、ハマチ?メジロなど、いくつ違った名前で呼ばれている。こうした細かい言葉の使い分けがあるのは、魚と日本人の生活との間に深いかかわりがあるからだろう。 日本は海に囲まれた国であり、昔から新鮮な魚に恵まれていた。寿司や刺し身のように、魚を生のまま食べる習慣があるのも、それだけ新鮮な魚がたくさん取れたからにほかならない。魚は日本人の生活に欠かすことのできないものだったのである。 ところが、最近、日本人にとって魚はそれほどなじみ深いものでなくなってきたようだ。台所を預かる主婦の間でさえ、「魚の名前を聞いてもそれがどんな魚なのかわからない。」と言う人が増えている。 こうした「魚ばなれ」の原因の一つは、魚屋や八百屋よりも、スーパー?マーケットで買い物をする主婦が増えたことにある。スーパー?マーケットでは。たいてい、冷凍で保存した魚を刺し身や切り身にし、1人前とか4人前とか、パックにして売っている。最初から切り身にしてある魚からは、とうてい泳いでいる魚の姿など思い浮かべることはできないだろう。むだがなくて簡単に食べられるのはいいが、調理の手間を省いたために、魚に対する主婦の関心や知識まで奪ってしまったのである。 大人でさえ知らないのだから、まして子供ならなおさらである。サケの切り身しか見たことがない都会の小学生が、実物のサケを見て驚いたという話がある。まさか切り身がそのまま泳いでいるとは思っていなかっただろうが、笑うに笑えない話である。 この調子では、日本人は今に、ブリとハマチの区別どころか、どんな魚も区別がつかなくなってしまうのではないだろうか。日本の伝統的な食文化が破壊されつつあると言っても、決して大げさではあるまい。
(2)
山田 : 昨日、テレビで「奥様教養クイズ」っていう番組を見てたんだけど、世の中 の主婦が、あんなに無知だとは思わなかったね。あきれちゃったよ。 王 : あら、どんなクイズだったの。 山田 : 魚を見せて、その名前を答えさせるクイズなんだけど、ほとんどの主婦が答 えられないんだ。毎日買い物をしていれば、魚の名前くらい自然に覚えそう なものなのになあ。 佐藤 : そのクイズならわたしも見てたわ。でも、主婦が魚の名前を知らないのも無 理ないんじゃないかしら。スーパー?マーケットで毎日買い物をしてても、 魚の知識なんか身に付かないと思うわ。 王 : だけど、日本は世界一たくさん魚を食べる国だって聞いたことがあるわ。そ れなのに、魚の名前を知らないなんて、おかしい気もするわね。 山田 : そうだろ。これは日本の食文化の崩壊だよ。 佐藤 : まあ、大げさね。山田君がいくら怒ったところで、しかたないでしょう。そ れなら、日本の食文化を守るために、山田君が主婦になったらどう。 山田 : いや、ぼくはもっぱら寿司や刺し身を食べることで、日本の食文化を守ろう と思ってるんだ。
第31課 山国の春、北国の春
手紙の文例集などに時候のあいさつの「決まり文句」が列記されています。その中から春のあいさつのいくつかを拾い出してみました。 2月 余寒なお厳しき折から、立春とは名ばかりで 3月 早春の候、寒さもようやくゆるみ、菜の花は今が盛り 4月 春たけなわ、野も山も花の春、陽(晩)春の候 これを見ると、日本の季節変化が短い言葉でうまく表現されているのに、あらためて感心してしまいます。しかし、これらは東京、大阪など日本の真ん中辺りの地域に当てはまる表現です。細長い日本列島の北と南では、春の季節感はずいぶん違うはずです。その辺のところを、気候表の数字で裏づけてみましょう。 気温は月の初めと終わりや一日の昼と夜で異なり、年によっても変動しますが、この表の値は、長年にわたって、それらの一切を平均したものです。月平均気温の平年値は、その月の15日ごろの日平均気温の平年値とだいたい同じです。 O各地の月平均気温の平年値(OC)
そんな目で、この表を見ると、各地の季節のズレの見当がつきます。例えば東京の4月中ごろの気温は、鹿児島の3月末か4月初めごろと同じで季節差は15日ぐらいです。そして札幌の4月中ごろの気温は、東京の3月初めごろの気温で、季節差は40日程度ということがわかります。つまり札幌と鹿児島とでは2か月のズレがあることになります。 もう、だいぶ前のことになりますが、東京がら札幌に転勤した時のことです。東京をたつ前夜は、住居の近くの桜並木は夜目にも白い花明かりで、暖かいそよ風がほおをなでていたのですが、翌日の千歳空港は横なぐりの吹雪で、札幌の街路樹はまだ冬木立でした。お花見をしたのは40日後の5月中旬のことでした。 それから数年後に、今度は、やはり花の都を後にして鹿児島に着任しました。その時は、桜はすでに散っており、初夏を思わせる日差しを浴びてクスの若葉が輝き、真っ赤なツツジの花が新緑の中に燃え始めていました。 降水量が適当にある地域について、気候表の月平均気温から自然界の様子を知るおおまかな目安を記しておきましょう。 「0度以下」 土壌水分は凍結しており、植物の生活は停止している。一面の雪景色。 「0度~5度」 雪が降ったり、冷たい雨が降ったり。春は時折の雪解け、泥んこの道 の季節。秋は木々は落葉しており、平野には積雪が現れたり消えたり。山は完全な積 雪。 「5度~10度」 春はまだ枯木立が多いが、枝に緑の芽が見え、早春の花が咲き始め る。秋は完全紅葉から落葉まで。 「10度~15度」 春は木々の花の咲き始めから新緑まで。秋は木々の葉の色づき初め から完全紅葉まで。雨が降れば寒く感じる。 「15度~20度」 新緑から濃緑へ。東京で言えば5月と10月の平均気温。湿度が適当 で青空ならば、このうえなくさわやかで明るい季節。ヨーロッパの夏の平均気温。 「20度~25度」 梅雨どきと秋の長雨のころの平均気温蒸し暑さを感じる。 「25度以上」 日本人が盛夏と感じる平均気温。真夏日、熱帯夜が現れる。 軽井沢の測候所の高さは999メートルです。その高さゆえに、東京からそれほど遠く はないのに、気温は約800キロメートル北の平野の札幌の気温と同じになっているのです。気温は普通、高さ1000メートルにつき、約6度の割合で下がります。東京付近では春の気温6度の差は約40日の季節差に相当します。 表の数字から気がつくもう一つの点は、山国や北国の春のテンポの速さです。3月から5月にかけての気温の上昇幅は、那覇5.7度、鹿児島8.6度、東京10.0度、札幌12.4度、軽井沢12.0度と、北ほど、また高い所ほど大きくなっています。北国や山国の春は遅いけれども、はじけるように始まるのです。 第32課 ツバメ
(1)
日本野鳥の会へ、今続々と「ツバメが巣に帰って来ました。」という情報が寄せられている。 だれでもが知っている野鳥と言えば、スズメとカラスの次に来るのがこのツバメであろう。特にスズメとツバメは、人の住んでいない所にはいないと言うぐらい。人間とのかかわりが大きい鳥である。 どうしてこのような習性を持つようになったのか、よくわかっていないのだが、巣の安全性と関係があると言われている。普通の鳥は、人間を外敵とみなして近寄らないようにしている。ところが、この2種は人間を、巣を襲うイタチや蛇などの外敵を防ぐものとして利用していると言うのである。人家周辺は、確かに人以外は簡単には近づけないので、もってもな説である。 しかし、この2種、人との付き合い方という点では、大きな違いがある。 スズメは、人をかなりの危険な動物とみなしているようで、エサ台に最初に来るくせに、人の動きにつねに気を配り、いち早く逃げる。巣ももちろん人の手の届かない場所に作る。 ツバメは、人のことを信頼しきっているようなところがある。手の届く軒下に巣を掛けるし、場合によっては、家の中に巣があることさえある。朝、戸を開けると活動を開始し、ツバメが戻ったあとで戸締りをする。こうなると家族の一員と言ってもよい。 ツバメは、また、にぎやかな所を好む。家なら人が出入りをする玄関に、町の中全体を見回すと、商店街の表通りに面した所に巣があることが多い。人の目があるほど安全ということなおだろう。 これほど人との結び付きの強いツバメでも、大都会となると話はちょっと違ってくる。コンクリート?ジャングルでは、巣を作ろうにも材料の土がない。どうにかビルや道路の工事現場で調達したとしても、補強材となる枯れ草が見つからない。やむをえず、土だけで作った巣は、卵やヒナの重みに耐えきれないでよく落ちる。 都会では、食べ物や水を探すのもたいへんである。ツバメはチョウやトンボなどの空中を飛んでいる虫を食べるのだが、緑の乏しい所では、育ち盛りのヒナにじゅうぶんな量を集めることはできない。公園には、食べ物を求めてこんなツバメがたくさん集まって来ている。 人との結び付きの最も強い鳥が住みにくい所は、人間にとってはどうなのか。あなたの町のツバメは、どんな生活をしているかに目を向けることから見えてくるかもしれない。食べいるもの、食べ物を探している場所、水はどこで調達しているか。こんなところからツバメの目からあなたの町がどのように見えるかわかるであろう。
(2)
山田 : もうすっかり春だね。おや、ツバメが飛んでる。 佐藤 : ほんと。もうツバメが帰ってくる季節なのね。 山田 : ツバメの姿を見ると、本当に「暖かくなったんだなあ。」って感じるなあ。 佐藤 : そうね。そう言えば、わたしが子供のころは、家の軒下にツバメの巣があっ たわ。 山田 : へえ、そう。ツバメって、毎年同じ巣に戻って来るんだろう。 佐藤 : そうなの。だから、まるで家族みたいに思ってたのよ。でも、最近はツバメ の巣をあまり見かけないわね。やっぱり都会は住みにくいのかしら。 山田 : なんだか寂しいわ。都会にもっと緑を増やして、いろいろな鳥や動物たちが 住めるようになったらいいのに。 山田 : でも、都会にもまだまだ緑が残っているよ。そうだ。佐藤さん、散歩のつい でにバードウォっチングをしてみようよ。
第33課 先端技術と伝統文化
(1)
科学の進歩によってもたらされた新しい技術が、今、人間の生活を大きく変えようとしている。コンピュータや産業用ロボットが広く利用され、また、太陽の光や地熱を新しいエネルギー源として開発する計画も進められている。さらに、生物の遺伝子や細胞を人工的に操作するバイオテクノロジー技術も注目を集めている。これらの新しい技術は、今後ますます発展し、さまざまな産業のあり方を大きく変えずにはおかないだろう。 これらの科学技術は、一般に「先端技術」と呼ばれている。ただし、先端技術と言うと、何かまったく新しい技術のように思われがちだが、必ずしもそうではない。最新の技術でありながら、その中に、これまで人間が培ってきた伝統的な文化や技術が生かされている場合も多いのである。 例えば、最近新しい素材として脚光を浴びているニューセラミックスというものがある。セラミックスとは、陶磁器やカラス、レンガなど、熱処理をして作った固体の材料のことである。だから、ニューセラミックスとは、要するに新しい陶磁器だと考えればいい。 もともと陶磁器は、素材として、熱に強く、しかも腐蝕しないという特性を持っていた。ほかの素材、例えば鉄やプラスチックなどに比べると、これは大きな長所である。鉄はさびるし、プラスチックは熱に弱く、すぐ溶けてしまう。ただ、陶磁器には、熱に強くさびないという長所がある反面、壊れやすく加工しにくいという欠点があった。そこで、陶磁器の長所を生かしたまま。強くて加工しやすい素材ができないものか、という発想で生み出されたのが、ニューセラミックスである。 陶磁器は石の粉と粘土を混ぜて焼いたものだが、ニューセラミックスは酸化アルミニウムなどの精製された人工原料を混ぜて焼き固める。そのようにして作られたニューセラミックスは、ダイヤモンドに匹敵するほど硬く、精密機械の部品として使えるほど、細かい加工を施すことができる。 ニューセラミックスと言えば、宇宙船の外壁に利用されたのが有名だ。空気との摩擦によって宇宙船の外壁は1000度にも達するが、ニューセラミックスはその高熱にじゅうぶん耐えられるのである。熱に強くかつ軽いという性質を生かして、自動車エンジンをニューセラミックスで作る研究も進んでいる。さらに、腐蝕せず、人間の体になじみやすいことから、人工の骨や関節などを作る材料にも使われている。 ニューセラミックスは、最新の科学的な知識と人間が伝統的に培ってきた知恵との融合だと言えるだろう。古いからの陶磁器の技術が、姿を変えて、宇宙時代を支える重要な技術として生かされているのはたいへん興味深いことである。
(2)
張 : 林先生は、バイオテクノロジーについてお詳しいと伺いましたので、お教え いただきたいと思います。まず、バイオテクノロジーとは何かと言うことで すが、文字どおり日本語にすると「生物技術」ですね。 林 : ええ。もっと厳密に定義すると、生物を利用して物質を生産する技術だと言 えます。例えば、大腸菌という細菌を利用して、インシュリンを作るとか… …。 張 : インシュリンと言うと、糖尿病の薬ですか。 林 : そうです。以前は、糖尿病の薬として牛のインシュリンを使っていたんです が、大量生産できないうえに、牛のインシュリンを受け付けない人もいまし た。ですから、人のインシュリンを大量生産する方法が研究されていたんで すが、人間の遺伝子を大腸菌に入れることによって、それが可能になったん です。 張 : 人間の遺伝子を大腸菌に入れると言いますと……。 林 : つまり、インシュリンを作るという情報を持った人間の遺伝子を取り出して、 大腸菌に植えつけるわけですね。現代では、人間の手で、ある程度遺伝子を 操作できるようになりましたから。 張 : 遺伝子を操作するなんて、まるで神様のようなことまで、人間はできるよう になったんですね。 林 : 確かにたいへんな進歩ですね。でも、考えてみれば、人間は大昔から生物を 利用して物を作ってきましたからね。例えば、イースト菌を使ってパンを作 るとか、酒や味噌や醤油なども微生物の働きを利用したものでしょう。理屈 は同じですよ。 張 : 伝統的な技術と共通する面があるわけですか。 林 : ええ、おおいにありますね。そうした伝統的技術に遺伝子操作という最新の 技術が加わって、バイオテクノロジーが生まれたと言ってもいいでしょう。 張 : なるほど。ところで、バイオテクノロジーはどんな分野で利用されているん ですか。 林 : 今のところ、医療や農業の分野ですね。でも、将来は応用範囲がぐっと広が るでしょうね。 張 : そうですか。バイオテクノロジーに、多くの人が期待を寄せているわけです ね。どうも、おもしろいお話をありがどうございました。
第34課 新発明のマクラ
「さあ、やっと大発明が完成したぞ。」 小さな研究室の中で、エフ博士は大声を上げた。それを耳にして、おとなりの家の主人がやって来て聞いた。「何を発明なさったのですか。見たところ、マクラのようですが。」 そばの机の上に大事そうに置いてある品は、大きさといい形といい、マクラによく似ていた。 「確かに、寝る時に頭をのせるためのものだ。しかし、ただのマクラではない。」 と、博士は中を開けて指さした。電池や電気部品が、ぎっしりと詰まっている。おとなりの主人は目を丸くして質問した。 「すごいものですね。これを使うと、すばらしい夢でも、見られるのでしょうか。」 「いや、もっと役に立つものだ。眠っていて勉強ができるしかけ。つまり、マクラの中に蓄えてある知識が、電磁波の作用によって、眠っているあいだに頭の中に送り込まれるというわけだ。」 「なんだか便利そうなお話ですが、それで、どんな勉強ができるのですか。」 「これはまだ試作品だから、英語だけだ。眠っているうちに、英語が話せるようになる。しかし、改良を加えれば、どんな学問でも同じことになるだろう。」 「驚くべき発明ではありませんか。どんな怠け者でも、夜、これをマクラにしてさえすれば、何でも身に付いてしまうのですね。」 おとなりの主人は、ますます感心した。博士は得意げにうなずいて答えた。 「その通りだ。近ごろは努力をしたがらない人が多い。そんな人たちが買いたがるだろう。おかげで、わたしも大もうけができる。」 「効き目が本当にあるのでしたら、だれもが欲しいがるに決まっていますよ。」 「もちろん、効き目はあるはずだ。」 おとなりの主人は、それを聞きとがめた。 「とおっしゃると、まだ確かめてないのですか。」 「ああ、わたしはこの研究に熱中し、そして完成した。しかし、考えてみると、わたしはすでに英語ができる。だから、自分で試してみることができないのだ。」 と、博士は少し困ったような顔になった。おとなりの主人は、恥ずかしそうに身を乗り出して言った。 「それなら、わたしに使わせてください。勉強はいやだが、英語がうまくなりたいと思っていたところです。ぜひ、お願いします。」 「いいとも。やれやれ、こうすぐに希望者が現れるとは思わなかった。」 「どれくらいかかるのでしょうか。」 「1が月ぐらいで、かなり上達するはずだ。」 「ありがとうございます。」 と、おとなりの主人は、新発明のマクラを持って、嬉しそうに帰って行った。しかし、2月ほどたつと、つまらなそうな顔で、エフ博士にマクラを返しに来た。 「あれから、ずっと使ってみましたが、いっこうに英語が話せるようになりません。もうやめます。」 博士は中を調べ、つぶやいた。 「おかしいな。故障はしていない。どこかが間違っていたのだろうか。」 だが、効き目がなければ使い物にならない。せっかくの発明もだめだったようだ。それからしばらくして、エフ博士は道でおとなりの女の子に会い、声をかけた。 「その後、お父さんはお元気かね。」 「ええ。だけど、ちょっと変なこともあるわ。このごろ、寝言を英語で言うのよ。今まで、こんなことなかったのに、どうしたのかしら。」 眠っているあいだの勉強が役に立つのは、やはり、眠っている時だけなのだった。
第35課 日本人と仕事
張 : 昨日の夕刊の記事、読んだかい。アメリカ人の84パーセントが自分の仕事 に誇りを持っていると答えたのに対して、日本人で同じように答えた人が何 人いたと思う。たった37パーセントだよ。 山田 : そんなことがあるもんか。だって、日本人は勤勉すぐるって、欧米の批判を 受けてるくらいだよ。 田中 : 確かに、山田君の言うとおりだね。でも、あのアンケートの結果も、まんざ ら事実と違うとは言い切れないね。 王 : それは、どういうことですか。 田中 : つまりね、同じアンケートの質問に答えるにしても、失業率の高いアメリカ と、ごく低い日本とでは、ずいぶん状況が違う。職業に対する誇り、とひと ことで言っても、とらえ方が違って当然だね。 張 : なるほど、それもそうですね。でも、以前は働きバチにたとえられた日本人 の職業観も、ずいぶん変わったみたいですね。 佐藤 : 本当ね。今じゃあ、仕事を離れた自分の時間を、大切にしている人が多いわ。 仕事に明け暮れないで、趣味を広く持つことを、国が奨励しているくらいで すものね。 山田 : それだけ日本が豊かになったっていうことかな。でも、皮肉だね。この豊か な社会の地盤を作ってくれたのは、働きバチと呼ばれた人たちなんだからね。 張 : でも、外国人のぼくから見たら、今でも日本の人はよく働いているよ。いろ んな日本の企業を見たけれど、機械化の進歩以上に驚いたなあ。 王 : わたしは女だから、どうしても、張さんとは見方が違ってくるけど、わたし がいちばん驚いたのは、仕事に対する女性の意識ね。 佐藤 : どんなところ。 王 : つまりね。中国と違って、必ずしも全員が仕事を持たなくてもいいわけでし ょう。特に、若い女性は、はっきり2通りのタイプに分かれているように思 うの。社会に出て、男性に負けないくらい、張り切って仕事をする人と、家 族で家事に専念することを希望している人とに……。 佐藤 : 王さんはさすが女性だけあって、見方が鋭いわ。その通りなのよ。でも、家 事に専念したいっていう人が多いのは、今の社会のあり方にも原因があると 思うわ。日本の社会は、まだまだ男性中心で、女性はなかなか自分の思いど おりの仕事に就けないのが現実ですもの。 山田 : それは、何も女性に限ったことじゃないさ。男のぼくたちにしたって、もう 学歴だけで好きな仕事に就ける時代じゃないよ。男だろうが、女だろうが、 条件はあまり変わらないんじゃないか。 田中 : 佐藤さんは、どうなのかな。王さんの言うどちらのタイプかな。 佐藤 : わたしは、もちろん社会に出て、自分の能力を思い切り試したいですわ。結 婚したあとも、相手の人が賛成してくれたら、続けていきたいです。 山田 : だけど、仕事と家事の両立は簡単じゃあないよ。日本の多くの男は、結婚す るとすれば、しっかり家庭を守ってくれる女性を望んでると思うな。 佐藤 : まあ。山田君って、意外に古いのね。そんな人に、お嫁さんが来るかしら。 張 : 佐藤さん、そんなにむきになるなよ。まるで、将来のだんな様と言い争いし てるみたいだよ。 佐藤 : 張さんまで、からかわないでよ。今は、まじめなお話をしている最中よ。 田中 : まあまあ、やめなさいよ。いずれにしても、みんな、これから進路を決めて、 社会に出て行くんだ。人生の選択は、真剣に考えて考えすぎることはない。 佐藤さんも、仕事を持つにせよ、専業主婦になるにせよ、自分が納得する道 を進むのがいちばんじゃあないかな。 王 : そうですね。自分が納得して決めるというのがいちばん大切ですよね。自分 の人生なんですもの。 田中 : そのとおりだよ。ただ、企業の中にいる人間として言わせてもらえば、今ま で男性中心だった日本の社会も、かなり変わりつつあるね。女性ならではの アイデアやセンスをもっと取り入れたいと考える企業が増えているんだ。だ から、これからは、さまざまな仕事に女性の存在は欠かすことのできないも のになってくると思うよ。 張 : そうですか。それはいいことですね。職業に対する見方も変わってきたし、 男性と女性の役割についても、見方がずいぶん変わってきたわけですね。 第36課 ミニヤコンカの奇跡
中国、四川省にあるミニヤコンカは標高7556メートル。青空に浮かぶその雄姿は、風にたてがみをなびかせる白馬にたとえられるほど、美しい山である。しかし、いつも美しい山だとは限らない。いったん天候が崩れると、それはたちまち荒々しい魔の山と化す。これまで、実に多くの登山家の命を奪ってきた恐るべき山である。 1982年春、7名の日本人登山隊がこのミニヤコンカに挑戦した。登山隊は、じゅうぶんに準備を整えたうえで、気圧の低い高山に体を慣らしながら、ミニヤコンカに挑んだ。そして、二人の隊員が、いよいよ頂上を目ざすことになった。 二人は、順調に頂上へ近づいていった。しかし、頂上まであと50メートルを残すばかりとなったところで、突然天候が崩れた。二人の登頂を阻むかのように、風が雪を舞い散らし、ガスが視界を閉ざした。 二人は登頂を断念し、天候の静まるのを待って、下山することにした。しかし、天候はいっこうに回復する気配を見せなかった。雪洞で野営するうちに、食料も尽き、疲労がしだいに二人の体をむしばんでいった。そのうえ、トランシーバーが凍りついて、ほかの隊員との連絡も絶たれてしまった。 二人は互いに励ましあいながら、下山の機会をうかがった。数日が経過して、わずかな晴れ間がのぞいた。この時だとばかりに、二人は気力を振りしぼって山を下り始めた。 しかし、体力を消耗し尽くした二人の足は、思うように進まなかった。わずか1時間で登って来たところが、下りるのにまる1日もかかった。そのうちに胃が食べ物を受け付けなくなり、手足の先が凍傷のために感覚を失って動かなくなった。とうとう二人は力尽きて倒れ、二人のうち一人は永久に帰らない人となった。 だが、一人は、重傷を負いながらも、かろうじて一命を取り留めた。奇跡的な生還を果たしたその人の名は、松田宏也さんと言う。 松田さんが助かったのは、薬草を採りに来た4人のイ族の農民のおかげだった。海抜2940メートルまで下りてきた松田さんは、小川のほとりで倒れ、そのまま体を動かすこともできなかった。その時、松田さんの耳に人の話し声が聞こえ、目の前に何人かの人の顔が現れた。のちに、松田さんの母親が「生き神様」と呼ぶ、毛光栄さん、倪明全さん、毛紹均さん、倪紅軍さんの顔であった。 4人は、松田さんを近くの山小屋まで運び、火を起こして温かい塩水を飲ませ、介抱した。そして、倪明全さんと毛光栄さんの二人が、すぐに山を下りて公社に報告した。この急報を受けて、100人以上の救助隊が出動した。そして、100キロの山道を一昼夜休まず松田さんを移送し、魔西の病院に担ぎ込んだ。 62キロあった松田さんの体重は、病院に担ぎ込まれた時、32キロしかなかった。さらに、診断の結果、両手両足の凍傷のほか、全部で16もの病名が付けられた。まさに瀕死の状態であったのだ。早速手術が行われたが、この敏速な処置が、死の淵をさまよっていた松田さんをよみがえらせたのである。 松田さんが助かったのは、奇跡というほかはなかった。もし、4人のイ族の農民に巡り合わなかったとしたら、また、多くの人たちの敏速で献身的な行動がなかったとしたら、松田さんは間違いなく命を落としていただろう。 その後、松田さんは、成都の四川医学付属病院に運ばれ、無償の手厚い治療と看護を受けて、日本に帰国できるまでに回復した。 今、松田さんは社会復帰を果たし、元気に暮らしている。両手の指と両足を失った松田さんだが、義足がその体をしっかりと支えている。そして、同時に、中国のたくさんの人たちの愛情が、その心を強く支えているのである。
第37課 小さな出来事
私がいなかから北京へ来て、またたく間に6年になる。その間、耳に聞き目に見た国家の大事なるものは、数えてみれば相当あった。だが私の心にすべて何の痕跡も残していない。もしその影響を指摘せよ、と言われたら、せいぜい私の癇癖を暮らせただけだ――もっと率直に言うと、日増しに私を人間不信に陥らせただけだ、と答えるほかない。 ただ一つの小さな出来事だけが、私にとって意義があり、私を癇癖から引き離してくれる。今でもわたしはそれが忘れらない。 それは、民国6年の冬、ひどい北風が吹きまくっている日のことである。私は生活の必要から、朝早く外出しなければならなかった。ほとんど人っ子一人歩いていなかった。ようやく人力車を1台つかまえ、S門まで行くように命じた。しばらくすると北風がいくらか小やみになった。路上のほこりはすっかり吹き清められて、何もない大道だけが残り、車はいっそうスピードを増した。やがて門に行き着こうとするころ、不意に車のかじ棒に人が引っ掛かって、ゆっくり倒れた。 倒れたのは女だった。髪は白髪まじり、服はおんぼろだ。いきなり歩道から飛び出て、車の前を横切ろうとしたのだ。車夫はかじを切って道をあけたが、綿のはみ出た袖なしの上着にホックがかけてなかったために、微風にあおられて広がり、それがかじ棒にかぶさったのだ。さいわい、車夫が早く車を止めたからよかったものの、そうでなかったら、ひっくり返って頭を割るほどの事故になったかもしれない。 女は地面に伏したままだし、車夫も足を止めてしまった。私は、その老婆がけがしたとは思えなかったし、ほかにだれも見ていないのだから、車夫のことを、おせっかいなやつだと思った。自分からいざこざを起こし、そのうえ私にも迷惑がかかる。 そこで私は、「何ともないよ。やってくれ。」と言った。 しかし車夫は、耳も貸さずに――かじ棒を下ろして、老婆をゆっくり助け起こし、腕を支えて立たせてやった。そして尋ねた。 「どうしたね。」 「けがしたんだよ。」 私は思った。おまえさんがゆっくり倒れるところを、この目で見たんだぞ。けがなどするものか。狂言に決まってる。実に憎いやつだ。車夫も車夫だ。おせっかいの度が過ぎる。それほど事を構えたいなら、よし、どうとも勝手にしろ。 ところが車夫は、老婆の言うことお聞くと、少しもためらわずに、その腕を支えたまま、ひと足ひと足歩き出した。私はけげんに思って前方を見ると、そこは派出所だった。大風のあととて、外は無人だった。車夫は老婆に肩を貸して、その派出所を目ざした。 この時ふと異様な感じが私をとらえた。ほこりまみれの車夫のうしろ姿が、急に多きくなった。しかも去るにしたがってますます大きくなり、仰がなければ見えないくらいになった。しかも彼は、私にとって一種の威圧めいたものにしだいに変わっていった。そしてついに、防寒服に隠されている私の「卑小」を絞り出さんばかりになった。 この時私の活力は、凍りついたように、車の上で身動きもせず、ものを考えもしなかった。やがて派出所から巡査が現れたので、ようやく車から降りた。 巡査は私のところへ来て言った。「ご自分で車を拾ってください。あの車夫は引けなくなりましたから。」 私は反射的に、外套のポケットから銅貨をひとつかみ出して、巡査に渡した。「これを車夫に……。」 風はまったくやんだが、通りはまだひっそりしていた。私は歩きながら考えた。しかし考えが自分に触れてくるのが自分でも怖かった。さっきのことは別としても、このひとつかみの銅貨は何の意味か。彼へのほうび?私が車夫を裁ける?私は自分に答えられなかった。 この出来事は、今でもよく思い出す。そのため私は、苦痛に耐えて自分のことに考えを向けようと努力することにもなる。ここ数年の政治も軍事も、私にあっては、子供のころ読んだ「子曰く、詩に云う。」と同様、ひとつも記憶に残っていない。この小さな出来事だけが、いつも眼底を去りやらず、時には以前に増して鮮明に現れ、私に恥を教え、私に奮起を促し、しかも勇気と希望を与えてくれるのである。
第38課 日本語と国際交流
教えることは教わることだと言うが、日本語を外国人に教えてみると、彼らから日本語について教えられ考えさせられることがよくある。 「先生、日本人、『さよなら』って言いませんね。」 「えっ?」 「good-byeのことですよ。人と別れる時、『さよなら』って言うのでしょう。国で習いました。」 「いや、『さよなら』って言いますよ。」 「でも、学生たち、使いませんね。」 「何て言いますか。」 「バイバイ。」 なるほど、親しい者同士、特に若い人たちは「バイバイ」とか「バイ」とか言って、手を振って別れることが多い。年輩の私などでも使うことがある。幼児に向かっては当然のように言う。一般の辞典の中には、「バイバイbye –bye(俗語)「もと、幼児語」さようなら」と解説するものもあるが、掲出していないものもある。日本語教育の教科書にも、普通は出ていない。いわゆる教室日本語と生活日本語の違う所なのである。 「先生、『はい』と『ええ』と、どう違いますか。」 「『はい』のほうが丁寧な返事ですね。」 と答えたものの、それだけかな、と気になった。それで考えてみて気がついた。これは案外大事な問題のようだ。 まず、「はい」も「ええ」も肯定の返事に使える点では共通している。 「お土産に果物を持って行ってあげようか。」 「はい、持って来てください。」 と言う時の「はい」は「ええ」とも言える。「はい」のほうが少し丁寧、あるいは、かしこまった感じがあるだろう。 「作文、もうできた?」とか、「あしたの会に出ますね。」とか、「旅行、好きですか。」などと聞かれた時にも、「はい」「ええ」の両方が使える。ところが、 「そこにいるのはだれ。」「はい、三郎です。」 と言う時の「はい」を「ええ」と言うのは変である。 「おはようございます。」「はい、おはよう。」 「じゃ、さよなら。」「はい、お気をつけて。」 などの「はい」を「ええ」と言うこともできないだろう。 これらから考えて、次のようなことが言えるのではないかと思う。 「はい」は、相手の言葉を受け止めたという意味の返事なのに対して、「ええ」は、相手の言葉を受け止め、さらにその内容を承認し肯定するという意味の返事である。「だれ?」とか「いつ?」とか、聞かれた時に、その内容を承認するとか肯定するとかいうことはあり得ない。だから「はい」は使えるが、「ええ」は使えない。「おはよう」とか、「さよなら」とか、あいさつされた時にも、その内容を承認するとか肯定するとか考えること自体、変なものだ。だからこの場合にも「ええ」は使えない。 先に、「はい」も「ええ」もともに使える場合は、「肯定の返事」として「共通している」と言ったが、これは、「はい」が文脈上、自然に肯定の意味をも表すようになっている場合なのだ。 ここまでが私の一応の結論だったのだが、しかし、さらに考えてみると、「はい」にも「ええ」にも、返事ではなくて相づちを打つ用法があって、紛らわしい、承認してくれた返事、肯定の返事だと思ったものが、単なる相づちだったとしたら、たいへんな誤解を生むだろう。欧米人は、あまり相づちを打たないで相手の言葉に聞き入る傾向がある。相づちを打つにしても“yes”の類は使わないようだ。そのため、欧米人から、「日本人はよく“yes” “yes”と言うけれども、実は、肯定しているわけでも、賛成しているわけでもない。言うこととすることが違う。」と非難されることがある。相づちの「はい」も「ええ」も“yes”に当たると思って気楽に“yes”を使うことが、国際的な不信感を生むもとになる。場面にもよるのだろうが、軽々しく“yes”を使ってはならないのだ。 「先生、『夢を見る』は慣用句ですね。」 と言われてはっとした。慣用句の問題を、留学生を交えた教室で話し合っている時に、ある中国人留学生が聞いたのである。 慣用句は「決まり文句」の一種だが、例えば、「羽を伸ばす」は、鳥がのびのびと羽を伸ばすというもとの意味から離れて、人が制約を脱してのびのびとする。気ままに振るまうという意味に使われる。このような比喩的な慣用句には、「腹が立つ」(怒る)、「心を打つ」(感動する)、「鼻にかける」(自慢の種にする)などがある。 これらに対して、ごく普通の決まった言い回しの慣用句がある。「電報を打つ」「いや気がさす」「気がつく」などである。これらは、比喩的な慣用句とは違って、もとの意味を失っていないが、語と語の結び付き方が決まっているものである。「夢を見る」もこのたぐいの慣用句だと言うのである。われわれ日本人にとって、「夢」は「見る」以外のものではない。「いやな夢を見た。」「夢に母を見た。」などと使う。「夢のない時代」「夢と知っていながら」などとも使うが、その「夢」自体、「見る」ものと思い込んでいる。あまりあたりまえで気がつかないでいたのである。「中国では『夢ラスル』(做梦)と言うんです。『夢を見る』と言わないので、おもしろいと思いました。」とその学生が付け加えた。数か国の留学生に聞くと、中国式の言い方をする言語もあるし、英語の“dream”のように一語で表す言語もある。日本語式に「見る」を使う言語もある。いろいろだということを教えられた。
第39課 座談会
――話せる喜ぶ――
西尾 : 陳さんは日本にいらっしゃって何年たちますか。 陳 : 4年半になります。 西尾 : 初めのうちはびっくりなさることもありましたでしょう。まず、料理のこと から始めましょうか。日本料理はお好きですか。 陳 : あのう。今はおいしいと思いますが、最初は味がわかりませんでした。特に 刺し身が食べられなくて。赤い身はちょっと怖いみたいで、人が食べるのも 見たくなかったんですけど。でも、何回か食べているうちに味がわかるよう になりました。 團 : 中国人の友達が教えてくれたんですけど、日本料理は「料理」じゃない。材 料がいいから「料」である。西洋料理は、材料があまりよくないから、何と かそれを食べられるように煮込んだりして、料理の方法、つまり理屈が発達 したから、「理」である。「料理」というのは中国にしかございません、と言 うんです。これは、本当にある一面を突いています。 陳 : なるほど。 團 : 日本のような小さな国は、どこにでも新鮮なものを運べるけれど、中国のよ うな巨大な国は、海の魚を内陸で食べることはできませんからね。 陳 : ええ、内陸の山西省では、猫も魚を食べないと言っていました。食べ物と言 えば、日本に来たころ、「湯」という看板を見て、スープを売っている所だ と思いました。男のスープ、女のスープ、それに、松のスープ。 西尾 : あっ、男湯に女湯。それに、松のスープは、「松の湯」というお風呂屋さん の名前のことですね。 陳 : ええ。おなかがすいていた時に、スープの看板を見たので、入って行こうと したら、主人が違う違うと慌てて…。主人は日本で育った人ですから。 西尾 : でも、スープだけ売っている店があるなんて変に思われませんでしたか。 陳 : でも、ここは外国ですから、どんなことがあるかわかりません。 團 : 陳さんは、日本語を勉強していらっしゃって、今の「湯」のお話のように、 日本語の漢字が中国と違う意味で使われていることにぶつかって、驚かれる でしょう。 陳 : ええ、ええ。 西尾 : 中国の方が日本語を習う時、初めは同じ漢字だから、簡単だと思って始めら れるんですけど、漢字の意味が違うことがわかると、似ているだけにかえっ て難しいと思い始めるようですね。 團 : それは、ぼくのように、日本人で中国語を勉強している場合にも当てはまり ますね。 西尾 : 漢字をつい自分の国の意味で読んでしまうから。 團 : それと、もう一つは、音よりも文字に頼りすぎる。 西尾 : テキストを読む時、意味を類推しながら読む。そして、会話をする時も、一 応字を頭に並べてみる。 團 : そう、日本の漢字を並べて、それを中国語の発音で読んで、できた、と思っ てしまう。会話に字は要らないのに、ぼくの頭の中では要る。結局、頭の中 で一度字を並べて、それを翻訳するから、早い会話には間に合わなくなる。 おそらく欧米の人たちは、字に頼らないから、音から入るんじゃないですか。 陳 : そうですね。 團 : だけど、日本人は字から入る。それは、利点であると同時に隘路になる。こ れは、中国の方が日本語を習う場合も同じですね。 陳 : でも、字を知らないと覚えにくいです。音だけで覚えた言葉では、たびたび 失敗をしました。ケッコウと言うところを、コッケイと言ってしまったり。 それからクチベニを買う時、「クチビルをください。」と言ってしまいました。 西尾 : ご無事でしたでしょうね。(笑い) 陳 : けれど、わたしも、今は日本の文字を意識的に読まないようにしているんで す。 西尾 : 日本の文字を中国語で読んでしまう弊害を避けるためですか。 陳 : ええ、今はその過程にいると思います。 團 : ぼくが中国語を勉強していて、もっとも苦労するのはやはり四声ですね。あ れだけ声調があることね。でも、中国語を陳先生に教えていただいているお かげで、日本語の上がり下がりが明確にわかるようになりました。これは、 ぼくの仕事で、歌を作る時に特に大切なことなのです。 陳 : あっ、そうですか。でも、團さんの声調は上手です。やっぱり音楽家だから。 西尾 : 耳がいいということは、言葉習得には有利ですよ。 團 : いやあ、耳がよくても記憶が悪いから…。ただ、語学というものは、とって もうれしいものですね。最初、中国に行った時、ぼくは何にもわからなかっ たんです。でも、陳先生に習い始めてから、だんだん人が何を話しているか ということがわかってきたんです。 西尾 : たとえ自分がその会話に参加できなくても。 團 : ええ、わかるというだけでうれしい。それが少しずつ参加できるようになっ てくる。そうすると、いかに上手な通訳さんがいても、直接話したほうが、 人間と人間のコミュニケーションができるんですね。たとえ下手でも。 西尾 : そうですね。ところで、今、中国ではたいへん多くの人たちが日本語を勉強 していますね。一説には日本語の学習人口は100万人くらいだとか。 陳 : いいえ、200万人以上でしょう。ラジオ講座のテキストが出ると、すぐ売り 切れてしまいます。必要があればあるほどよく勉強します。 團 : 「必要なき所に進歩なし。」ですね。 西尾 : ところで、日本でも、陳さんのテレビ講座やラジオ講座で中国語を勉強して いる人が、やはり100万人以上はいるんじゃないですか。やはり社会的に必 要だということで。 陳 : ええ、あるいは本当に興味があるから。 團 : やはりそれは、いかに多くの日本人が中国との友好を求めているか、という 表れでしょう。そして、中国の方が日本語を勉強なさるのは、友好と同時に、 近代化への必要性を求めているからでしょう。 陳 : そうです。 團 : やはり、国同士に友好の意欲がある時に、相互に語学が盛んになるでしょう。 国同士が互いに魅力を感じ合う時は…。 陳 : ええ、ええ。ですから。これから、日本語を話せる中国人と、中国語を話せ る日本人が、どんどん増えるでしょう。そうして、お互いに直接、交流でき るようになるのは、本当にいいことですね。 西尾 : そうですね。本当にすばらしいことですね。
|
|
来自: Dreamfly210 > 《日语》