このブログで、最近、一番読まれているのが、この記事です。
おそらく、「シャチ継」について、知りたいという方がたなのだと思います。お役に立てばいいな、と思っていますが、一方で、少しばかり気になることもあります。そこで、その際、「気になること」もお読みいただければ幸いです。[2015.12.28 追記] [図版を大きいサイズに更新 9.45] 15年ほど前に「継手?仕口」の模型を大工さんにつくっていただいた。 すべてを4寸角の材(仕上りは3寸8分)でつくった実寸大模型です。 その中から、「シャチ(栓)継ぎ」をとりだして、作業工程の順を撮ったのが上の写真。 部材に分解して15年ほど保存していたため、かなり狂っている。組んであればそんなことはありませんが、組んでゆく過程を説明するための模型ゆえ、部材のままの保管にするしかなかったのです。 材料にはかなりよいヒノキ材を使っていただいていますが、それでも長年のうちには収縮が起きるのです。乾燥材は収縮しない、などということはないのです。 一番上の3枚組みの写真は、横材の取付く「柱の刻み」、横材(「下木」と「上木」)、「シャチ栓」を撮ったもの。 「大方の構造計算が得意の方」は、この柱を見ると(特に現場で見ると)、こんなに彫って、折れてしまうのではないか、と言います。 実際、「四方差」の場合には、柱の四隅の僅かな部分で上下がつながっているだけです(この模型は、「三方差」)。 しかし、いままで4寸角(仕上り3寸8分角)で計画して、組んだ後、折れたことはありません。 ただし、工事中は、特に最近のようにクレーンを使う場合には、操作を誤って他材などにぶつけると折れることもあり、注意が必要です。もっとも、私は、そういう経験はありません。 一旦組み上がってしまえば、折れる心配はまったくないのですが、それでも「大方の構造計算が得意の方」は「断面欠損が多すぎる」といって心配します。 「シャチ栓」を打つことで、柱と横材が密着してしまうことが想像できないのでしょう。こういうところにも、ものごとを机上だけで考え、架構を「部材の足し算で考える思考」が垣間見えます。 上段の写真のように、「下木」と「竿」には、「シャチ栓」を打つ「道」が彫られます。平行四辺形の形になっていて、幅が3分、長さが1寸3分ほどです。 「シャチ栓」も面が平行四辺形で、側面は「楔(くさび)」型につくられていて、この場合は、厚さ3分、側面は、幅は上端が1寸5分、下端は1寸2分ほどです。 「シャチ栓」を「道」に打ち込むと、打ち込むにつれて、「道」の長さ:大きさ(a~a、b~b)は「栓」に押されて広がります。 孔の長さ:大きさが「広がる」ということは、「下木」側から見れば、「上木」が左に動く、つまり、「上木」が「下木」側に「引き寄せられる」、ということです(「上木」側から見れば逆になりますが、両者が「引き寄せられる」ことには変りありません)。 これが「シャチ栓を打つ」ことのすばらしい効能で、これについては、以前に「近世の継手の様態」の説明のときにも触れました。 おそらくこの効能の「発見」は、「楔」の効能の「発見」同様、余計にあけてしまった(あるいは、あいてしまった)孔に「埋木」をして修復することを通じて発見したのではないかと思います。 こういう発想は、机上では、絶対に生まれないでしょう。「思いつく契機」がないからです。 むしろ、机上で数値で考えたがる「科学者」は、発想自体を潰す方向に動き、こんな小さな「シャチ栓」だと、力がかかったらぶっ潰れてしまう、などと言うでしょう。 こういう「現場の発想」を、「計算されていない」「直観にすぎない」「理論の裏付けがない」???と言って毛嫌いし、いい感じを持たないのが「科学的」を標榜する「大方の構造計算が得意の方」の常なのです。 けれども、もしもヤワな仕口だったならば、とっくの昔に使わなくなっていたはずですが、そんなことはない。使い続けられているのです。 私は、もうお分かりのことと思いますが、現場で実働されている方々の「直観」の方を、それこそが、「科学的判断」と見なす人間です。すべてが数値化できる、などと考えるくらい「非科学的なことはない」からです。 下の写真の下3枚。最初は「栓」を打つ前の段階で、「下木」の白線より右に「上木」の白線があります。 次の写真は、「栓」を少し打込んだとき、最下段は、さらに「栓」を打込んで、「下木」「上木」が引き寄せられ、両者が柱に密着した状態です。白線の位置でご確認ください。 ここでは、柱は実物を使うのはやめました。模型が乾燥で狂ってしまっていることと(少しばかり削らないと、取付かない!)、組んでゆく途中、横材を維持するうまい方法がないからです。見にくいかも知れませんが、「柱」と記入した「紙」と「柱の刻み」で、組み上がりの姿を想像してください。 さて、実は今井町の「豊田家」(「高木家」のおよそ180年前の建物)では、「差鴨居」を使っているのですが、その取付け方法がかなり違います。 残念ながら「豊田家住宅修理工事報告書」には、「高木家」のような「仕口詳細図」が載っていません。そこで、「取付図」などから想定して「仕口詳細」の想定図を作成する作業を、連休中にしてみようかな、と思っています。 もう一つやってみたいと思っていること。それは「古井家」の架構模型作成。 ところで、最近当ブログを見ておられる方の関心が、日本の木造技術以外で、「トラス(喜多方のトラス)」、「旧帝国ホテル」、そして「RCを考える」にあるように感じています。そのアクセスが目立つのです。 そこで、「豊田家」の作業をしている間、たまたま最近、その昔、信越線の横川駅近くにある旧「変電所」を撮ったスライドフィルムを発掘(!)したので、その中から鉄骨のトラスの写真をいくつか紹介しようか、と考えています(この建物は「重要文化財」に指定されて、現在は修理復元されていますが、写真は、その前の荒れ果てた状態のときの撮影です)。 一日中吹き荒れた風雨もおさまり、今日は見事な青空。ただ、風は強く冷たい。 今、新緑真っ盛り。ケヤキの若葉を透けて見える青空。 さて、今日は「修理工事報告書」の全コピーを「国会図書館」に依頼したときの話を。 「国会図書館」に事前に「利用者登録」をしておくと、誰でも、インターネットを通じて必要書物や資料の「複写サービス」を受けることができます。 これまで、必要があると、近くの大学図書館へ行っていたけれども、それも面倒になり、昨年秋に利用者登録をして、手始めに「古井家住宅修理工事報告書」の全コピーをお願いした。昭和46年(1971年)の刊行である。 「古井家」の報告書は、70頁足らず。送料込みで2500円余りで綺麗なコピーを送っていただいた。もしも古書で手に入れようとすると(他の資料は、大方が古書店で購入したもの)、もちろんコピーではないが、こんな値段では済まない。 そして、この春、今井町の「高木家」の報告書の全複写をお願いしたところ、「国会図書館」から、著作権の関係で、全複写はできない、原則半分が著作権法で認められる分量で、全複写をするには、刊行者?編者の「許諾書」がいる、との丁寧な連絡があった。 著作権の法的な期間は50年、「高木家」の報告書は1976年の刊行だから、まだ30余年、たしかにまだ不可の期間。 「古井家」の場合も不可のはずだが???、とは思ったけれども、勘違い?間違いもあるのだろう。 そう思って、この際、「高木家」とともに「豊田家」の報告書、「箱木家」の報告書の複写資料を手許にそろえようと、前二者の刊行者の「奈良県教育委員会:奈良県文化財保存事務所」、後者の編者「文化財建造物保存技術協会」あて、「許諾書」の発行を依頼した。 数日後、「奈良県教委?奈良県文化財保存事務所」から、資料の使用目的等についての問合せの電話があった。 そこで、世の中一般に、わが国の木造技術に対する誤解が蔓延していて、法令も往古の技術を全否定する傾向にある。最近になって往古の技術の見直しが始まりつつあるけれども、それも往古の技術を詳しく調べてのものではない。 そういった傾向に対して、事実を開示しないと、誤解が真実であるかのように広まってしまう恐れがある、そういう事実開示のために使わせていただくのだ???と、少し長くなったけれども電話で話をした。 私の「目的」は了解いただいたのだが、その話の過程で、こういう「報告書」の発行部数の話が出た。 「修理工事報告書」を実際に見ることができるのは、大きな図書館、大学図書館、建築史研究室など限られている。 たとえば、先に少し触れた平安期建設の「白水阿弥陀堂」。福島県の「いわき市」にある。そこで、「いわき市立図書館」「福島県立図書館」蔵書をインターネットで調べたところ、蔵書にない。地元にないのである(調べ方が足りなかったからだろうか?)。 大学図書館だって、すべてが所蔵されているとは限らないのです。 何故だと思いますか? この種の「報告書」は、絶対的に、刊行部数が少ないからなのです。 「奈良県文化財保存事務所」刊の「高木家」「豊田家」の報告書の場合、刊行部数は、300部なのだそうです。全国で、僅かに300なのです! 私は、1000部くらいはあるのかと思っていたから、そこで絶句。 部数が少ないのは、予算の都合であるらしい。 そこで私は「著作権の保護」とは、いったい何を保護するのか、訝りました。 このような場合は、むしろ、「貴重な資料?データの死蔵に等しい」のではないのか、文化財として認定して詳細な調査をする、その意味はいったい何なのか、その趣旨に反することが行なわれているのではないか、???私はそう思いました。 そしてさらに、事実に基づいた資料?データが広く開示されていないがゆえに、それをいいことに(皆が事実を知らされていないことをいいことに)、「似非伝統建築」の実験などが大手を振って行なわれてしまうのだ、とも思いました。 これは非常に問題だ、と私は思います。 依頼した「報告書」は、全部丁寧に複写されて到着しました。3報告書で600頁を越える分量、総費用は、僅か1万6千円余り。古書で買えば、数倍じゃきかないでしょう。 これから先、著作権法に抵触する、などと言われるかもしれませんが、私は、誰もが知っていてあたりまえと考えられる事実?資料は、手に入り次第、公開するつもりです。 見事な壮快な新緑の季節というのに、暗い話で恐縮です。 先回の図版のうち、最下段の詳細図を更新します。 仕口部を色分けしようといろいろ試みましたが、どうやってもうまくゆかないので、この程度でやめておきます。 なお、「竿シャチ継ぎ」の簡単な模型がありますので、「シャチ栓」を打つと、どうなるか、天気が回復したら撮影して、載せるつもりです。 [文言不備部分改訂加筆 17.50] この三月、これまで抜粋コピーで済ませていた「資料」を、国会図書館から全コピーで取り寄せることにしました。 とりあえず、「古井家」「箱木家」「豊田家」「高木家」の「修理工事報告書」です。 全コピーとなると、著作権の関係で、いろいろと手続きが必要で、結局手許に入るまで、約一ヶ月かかりました。 その間にあった「余談」は、いずれ紹介します。 先回、奈良?橿原市(かしはら?し)今井町の「高木家」の架構をあらためて紹介しました。 その架構図は、「日本の民家6:町家Ⅱ」から転載?編集したものですが、元図は「重要文化財 高木家住宅修理工事報告書」(奈良県文化財保存事務所刊)にあります。 総二階建ての「高木家」の架構が、「通し柱」を「差鴨居」で結ぶ方法を主にしていること、その「柱と差鴨居の仕口」が「竿シャチ継ぎ」であることを書きました。 そして、「報告書」には、この「差鴨居と柱の仕口:竿シャチ継ぎ」の詳細が、寸法入りで載っています。 そこで、今回は、それを紹介させていただきます。 上の図の一段目の左側は、「報告書」所載の「仕口詳細図」ですが、これは「へ」通りの「六通り」および「十四通り」との交点の「通し柱」の仕口を示したものです。 なお、参考比較のために、上段右下端に、現在の通常の「竿シャチ継ぎ」の分解図を載せました。 中段の図の左は、「へ六」の「通し柱」の全側面図で、「仕口」の彫りが記入されています。 次の図は、この柱の側面図から、「差鴨居」の取付き部を拡大したものです。 中段右の図は、これらの資料を基にして、「六通り」の差鴨居仕口をアキソメで書き直してみたものです(刻みが見えるように、通常とは角度を変えて描いています)。参考に、前回載せた「差鴨居分解図」から、当該箇所だけ切り取り載せてあります。 そして下段の図は、同じ場所の詳細を大きく描き直してみたものです。 描き直す気になったのは、元図に、誤記と脱落箇所が見付かったからです。 a の寸法は元図では375mmになっていますが、各部の寸法を足すと315mm。おそらく、図に記入するときの誤記だと思います。 c の寸法には14□ の□の部分に脱落があります。下段の図では c を148mmとしていますが、これは下段の図で*印を付けた寸法を私が推定して想定したものです。 つまり、竿の長さは270mmで分っている。竿の柱より外に出る部分:下木に差さる部分の寸法は、それから柱径を引き算したもの。 「へ六」柱の径は出ていないので、全般に4寸2分:127mmである、との報告書の数字を径として計算し残りは b:143mm。 下木の彫りの方は、「ゆとり」をとるのが普通なので、それを5mmとすると148mm、という想定計算の結果です。 これをまとめたのが、下段の図です。 なお、この図の右側の「竿付き」の材の、竿の下側の「目違い」(柱の内側に納まる竿の幅と同じの出っ張りの部分を、通常、メチガイと呼びます)の「出」は元図にはありません。これも、柱径を127mmとして、想定した寸法です。 左側の材:竿を受ける方の材の「目違い」の出は65mmとありますから、「竿付き」の材の「目違い」の出は、62mm以下でないと、両者が柱内でぶつかってしまう。そこでゆとりをみて、多分60mm程度、と想定したわけです。 それはさておき、この仕口図を見て感心したのは、d と e の刻みです。 現在だと、参考図のように、ただ「胴付」を設けて「竿」をつくるのが普通です。 しかし、ここでは「胴付」に相当するのは e だけで、上の d は「胴付」の中程を欠き取ってあり、どちらかといえば「目違い」と呼んだ方がよいような刻みです。 しかも、e は、わざわざ「台形(梯形)」型に刻んであります。 「胴付」を設けるのは、「竿」だけに重さがかかるのを避けるため、材の捩れをを防ぐため、この二つの目的があります。 その意味では、現在の方法でも、一定程度目的は達成できます。 ところが、この現在の方法では、得てして、柱に亀裂が入るのです。 材の捻れ=「胴付」の捻れとなり、それに柱が押されて割れが入るのでしょう(今回は間に合いませんが、機会をみて、実例を写真で紹介します)。 「高木家」の差鴨居の手の込んだ刻みは、このような柱の割れを防ぐためと考えられます。 先ず e の「台形」の刻み。こうすると、材が捩れようとしたとき、柱を割る力は、「木理:木目」に対して斜めにかかることになります。 普通の角型の「胴付」だと、力は直かに「木理」を裂くように働きますが、「台形」だと、裂く力は斜めにかかるため、「木理」を裂く力:木理方向の力:が低減されるのです(「力の分解」の理屈です)。 上の方で、普通の「胴付」にせず、二列に分けたのは、それで十分「捩れ止め:狂い止め」の目的は達成できる、という判断でしょう。 しかも、柱の欠き取りも少なくて済み、柱との噛み合いも強く、それでいて柱に割れの入る恐れも格段に少なくなるのです。よく考えてあります。 いろいろ考えてみても分らなかったのが d を一段下げた理由です。北側からの差鴨居の「胴付?目違い」と位置(高さ)が同じにならないようにするためか、とも考えましたがそうでもない。他のところにはないやりかただ。??? そこで、あらためて元図を見直したところ、元図には d の上に、斜めの線がある。 最初私は、単なる図の汚れぐらいに考えていたのですが、そうではないことに気がついた! その部分は材木の「丸み」の部分なのです。したがって、その部分はないのだから、当然刻みは下げざるを得ない、というわけです。 下段の図は、そのことが分らないままで描いた図です。そして下がりを30mmとしてありますが、それは図上で計った寸法で意味がない!「丸み」次第なのでした! ちゃんと「丸み」をつけた図に描き直さないといけません!でも、間に合わないので、恐縮ですが、角に「丸み」があると思って見て下さい!!。 この刻みは、きわめて手の込んだ細工です。しかしそれは、すべて、その部位で「何が起きるか、どんなことが想定されるか???」を考えた結果の仕事なのです。 ある種の大工さんのなかには、昔も今も、意味を考えず、いわば「趣味」として複雑な刻みをしてとくとくとしている人たちがいます。 しかし、「高木家」のそれは、「遊び」ではなく、「意味」があるのです。 他の部分の仕口も描き直してみると、おそらく別の発見があるのかもしれません。 今、割と気楽に「継手?仕口」を考え、また使っていますが、やはり、各部位に何が起きるかを考えながら使わなければならないことを、あらためて感じた次第です。 三月いっぱいにまとめる話が、先週末に、ようやく落着。 さて、「継手?仕口」の話の続き。 先回は江戸時代までくると、「シャチ栓」を使う継手?仕口が増えてくることを紹介しました。 今回は、以前にも載せましたが、江戸時代も末、天保年間:1830~40年頃の建設と言われ、竣工直後に「安政の大地震」に遭ったはずの奈良県橿原市今井町の商家:「高木家」の架構法を紹介します。 この例は、日本建築学会編の教科書「構造用教材」に「伝統工法」の例として載っているくらいですから、その筋の学者先生方も無視するわけにはゆかない建物なのだ、と思います。 それはともかく、この建物の架構は、実に明快にして明解。 この建物の直ぐ近く、300mほど離れた場所に、これも以前紹介した「豊田家」があります。 両家は、ほぼ同規模の商家ですが、こちらは寛文2年:1662年の建設ということが分っています。この建物も「安政の大地震」を経てなお健在です。 この二つの建物は、建設時期に約180年の隔たりがあることになります。 ですから、両者を見比べると、その間の「技術」の推移の様態が分る絶好の現場なのです。一日で、しかも同じ町内で見比べられるなんていうのは、滅多にありません。 そして、この二つの建物では、まさに「シャチ栓」が主役。主要な「仕口」はすべて「シャチ栓継ぎ」なのです。 今回は、「高木家」の「当初復元平面図」と調査で分った「架構図」と、主要な「仕口」図を載せます。図は「日本の民家」(学研)および「高木家住宅修理工事報告書」(奈良県)が出所です。 上の「仕口図」は、「架構図」で「黄色に塗った通り」の「差鴨居の仕口分解図」、下は同じく「緑に塗った通り」の「根太受けの仕口分解図」です。 [恐縮ですが、図の部分をプリントして、それを片手にお読みください] 「高木家」は総二階建て(一部吹き抜け:どま)の建物ですが、その架構は、現在の二階建ての方法とは大きく違います。 平面図で分るように、一階と二階の平面:間仕切位置はほとんど同じです。そして、建物の四隅と間仕切の交点に「通し柱」が立ち、「通し柱」~「通し柱」には、「差鴨居」が組まれます。 そして、二階の床は、この「差鴨居」上の「束柱」で支えられた「根太受け」が根太を受け、床を張る、という手順で組まれています。 そのうちの「六」通り(黄色に塗った柱列)の「差鴨居」の分解図と、「ほ」通り(緑色にぬった列)の「根太受け」(今なら「床梁」「二階梁」とでも言うでしょう)の分解図が上の図です。 この方法は、「束柱」で支えた「大引」で根太を受ける一階床に似たやりかたを、「差鴨居」上でやっている、と考えてもよく、言うならば「根太受け」は一階床の「大引」にあたる材、そこで、ここでは「根太受け」という名で書いたのです。ただ距離が跳ぶので丈が6寸~7寸ほどになっています。 この建物で特徴的なのが、柱は「通し柱」も「管柱」も、すべて、4寸2分角(12.7cm)であることです。いわゆる「大黒柱」がない。 当初の柱がすべて残っていて、柱総数61本、そううちの32本が「通し柱」(ということは柱の半分以上が通し柱ということです!)、18本が「管柱」(1階だけ、または2階だけの柱)、11本が「庇柱」(庇支持用の柱)とのこと。 北面の「庇柱」は3寸6分角、南の通りに面する「庇柱」は主柱と同寸の4寸2分角を使っています。 柱は、東西両側の通り(「い」「る」)と「り」通りでは5寸角のヒノキの「土台」の上に立ち、南北面では「礎石建て」、「土台」のように見えるのは「地覆(ぢふく)」です。 なお、「土台」の「継手」は「腰掛け鎌継ぎ」、「土台」に立つ「柱」は「長枘差し」です。 さて、「差鴨居」と「通し柱」の取付きに使われているのが「シャチ(栓)継ぎ」です。「竿シャチ継ぎ」と言うのが正式名です。柱を貫通して相手側に差す長い「枘」を「竿」と呼んでいますが、この建物では、一材からつくりだしています。こういう場合を「本竿」と言うようです。 今回は詳しく触れませんが、細部の刻みも、非常によく考えられた仕事がされています。つまり、ただ彫ればいい、という仕事ではなく、それぞれの刻みに「意味」があるのです(報告書に「刻み」部分の詳細実測図があるので、次回に紹介を予定しています)。 二階床の「根太受け」は、「二」通りから「二〇」通りまで、同じ高さで一列に連なっていますが、「六」通りと「一四」通りの「差鴨居」上の「束柱」の真上で継いでいて、「目違い付き鎌継ぎ」を使っています。 その場合、「下木」側を「束柱」が受け、その「下木」に「上木」が落される形をとっています。「腰掛け」を設けていないのは、下から「束柱」が受けているからで、「目違い」を設けたのは、「上木」の側の材の下部が、「下木」からはずれて捩れることを嫌ったからです。 ということは、単に、継承されてきた「仕口」の「形」を刻んでいるのではなく、常に「理由」を考えて刻んでいる、ということです。どう継ぐか、どう取付けるのが最上か、場所?部位ごとに、そこで何が起きるか、何を考えておかなければならないか、考えているのです。 常に「理由」を考えながら仕事をする、まさにこの点こそ、現在の多くの「技術者」が忘れてしまった「技術の本質」なのではないかと、私は思います。 今の「技術者」の中には、金物が付いていればいいや、で済ませてしまい、何のための金物なのか、考えない人がたくさんいます。 その極めつけは、大方の確認審査を担当する「技術者!」の方々です。そして、それに唯々諾々としてしたがう「建築家」の方々です。 「高木家」は、「浄土寺?浄土堂」「東大寺?南大門」などと同じく、すごいなぁ、と、私がいつも思う建物の一つです。 [図面が小さすぎました。図版編集しなおそうかと思っていますが、 とりあえずは、恐縮ですが、拡大して見てください。] ふと、ドイツの継手?仕口の本があったことを思い出して、パラパラとめくってみました。 「Handwerkliche Holzverbindungen der Zimmerer」 295×235㎜ 全191ページ 1992年 Deutsche Verlags-Anstalt刊 日本や中国、ブータン、ベトナムなどの事例も参考として少し載っています。 現場で仕事をする人というのは、皆、同じようなことを考えるものだ、と思います。 見てて楽しくなります。 そして、やはり、ドイツには、ちゃんと系統だてて調べる人がいるんですね。 日本ではこういう本はないようです。 こういうのを見ると、日本人のなかには、日本の木造技術は、中国ではない、ドイツがルーツだ、なんていう方が出てきたりするかもしれませんよ???。 全部というわけにもゆかないので、これまで見てきた日本の継手?仕口と共通するものを集めて、勝手に分類してみました。 図版が長いので、そして、ドイツ語をは遠い昔にかじった程度ゆえ、読むには時間がかかりそうなので、今回は、図版だけでご勘弁を??。 読解できたら、それぞれをどんな意味の名称なのか見てみたいとは思っています。分るかどうか頼りない??。期待しないでください。 もっとも、読解できなくても、図だけで何か言えるとは思いますが??。 なお、最初の写真で分るように、木材はほとんど広葉樹系のようです。 「継手?仕口」というのは、大体、出来上がってしまうと見えなくなります。 また、多くの人は、専門家を含めて、あるいは「建築家」を表に出す人は特に、そういう細工がしてあることに気がつかないし、注意も払いません。 おそらく、こうなったのは、設計と施工が別扱いになってからのことでしょう。 昔も「指図」するだけの人はいました。しかし、その人たちは、見えないところも知って指図をしています。だから指図できたのでしょう。 それはさておき、 先に、中世の様態をみてきました。室町の頃になると、精緻な仕事もが増えてきます。今回話題にする「シャチ」も、どうもその頃から多く使われるようになるようです。 上の図の①~③は、前回にも載せてあります。ただ、前回は寸法表示が見えなかったので、図版をつくり直しました。 ①は、断面が4寸×3.5寸の2材を、長さで2尺分、半割りにして合わせ、中央部に上から「栓」を打って2材を密着させる、というもの。 それぞれの材の先端に小さな「枘」:「小根枘(こねほぞ)」をつくりだしてありますが、これは相手の材に嵌まり左右にはずれなくする工夫です。 この部材は、正面下からしか見ない箇所ですから、見る人には1本の線しか見えません。 ②は、仕上がると「鎌継ぎ」に似た形になりますが、密着度は「鎌継ぎ」よりも、はるかに強くなります。「栓」を打つことで、2材が密着するからです。 しかも、仕事は「鎌継ぎ」よりも簡単です。上木になる材の細長い部分を「竿(さお)」と言いますが、仕事は「竿」をつくりだすだけで、「鎌」の形を刻む必要がありません。下木も同じで、「竿」の道を彫るだけで済みます。そのあとで、上木、下木に「栓」を通す「道」を刻めばよいのです。 仕事が簡単で、強い「継手」になる、こんな優れものはありません。 なお、図では、下の材に竿のついた材を上から落して継ぐように見えますが、実際はその必要はありません。左の材に、横から差し込むこともできます。その点も「鎌継ぎ」とは違います。 ③は、通称「金輪継ぎ(かなわつぎ)」「尻挟継ぎ(しりばさみつぎ)」などと呼ばれる「継手」に同じと言ってよいと思います。 これはきわめて強い「継手」で、ほとんど1材と変わりないと言われます。 同様に強い継手に、ここにはありませんが、「追っ掛け大栓継ぎ」というのがあり、これは下木に上木を上から落す仕事になるのに対して、この場合は、材を水平に動かす作業で継ぐことができます。 それゆえ、土台が腐った、などというときの補修に使える継手です。腐った部分を取去り、先端にこういう刻みをして、同様の刻みをした取替え材を横から合わせ、「栓」を打てばよいわけです。 そういう場合、普通は、この継手を90度回転した恰好にします。横からだけの作業で済むからです。その場合を「布継ぎ」とも呼んでいます。 ③では念には念で、2材を「かすがい」でとめています。何となく「小根枘」だけでは左右に離れてしまうのではないか、と考えたのでしょう。 この「心配」をみると、これは、ことによると、この継手が考え出された初めのころの事例なのかもしれません。 ④は、③の変形と考えてよいと思います。ここでは、もう「かすがい」は使っていません。 ⑤は、こんな幅の狭い材で、よくぞやってくれた、と驚く仕事。②とは「栓」の位置が違うだけで、原理?理屈は同じです。 ⑥は、原理?理屈は③④に同じですが、これも驚いてしまう仕事。 角材の、しかもきわめて細い角材の断面の1/4だけを使い、「栓」を二方から打っています。 具体的にどういう場所なのか分らないのですが、そうしなければならない理由があったのだと思います。 ⑦は手慣れた「金輪継ぎ」「尻挟継ぎ」と言ってよいと思います。 さて、⑧は、通し柱に横材:差物を二方から差すとき、一般の建物で常用される手法:「継手兼仕口」です。 なぜ「継手兼仕口」と言うかというと、柱を挟んだ2本の横材を継いでいると同時に、それぞれの横材に「胴付(どうづき、附の字を使うこともある)」が設けられているために、「栓」を打つと、柱を挟んでいる2本の横材は強く柱に取付くことになり、それゆえ堅固な「仕口」にもなるからです。 「栓」が打たれると、柱と横材で、頑強な十字型が形成されます。 この事例の建物の建設年の1656年というと、奈良今井町の町家が盛んに建てられていたころ。今井町の町家では、この手法が柱の四方に使われています(「四方差」)。 ⑨は、以上と同じ原理?理屈が、柱の足元の取替えに使われている例。 これは、③の方法を、垂直方向に使ったと考えればよいでしょう(先回紹介の私の拙い仕事を垂直に使ったものと言えます)。 もっとも、この神社では理由が分りませんが、最初から使われていたそうです。 かつては、柱の根元が腐ったりしたとき、この「継手」を使い修復することができました。 しかし、現在は、金物補強している関係で、このような修復ができなくなっています。 現在の法令の推奨する仕様は、補修?修繕について、まったく考慮されていないのです。長寿命住宅などと言いながら、それでは片手落ち???。補修?修繕なしで、長持ちするとでも考えているわけで、それでいて「指図」したがるのは困ったもの。それは指図ではない。 ここで見てきた「栓」は、⑨以外は、普通「シャチ」「シャチ栓」などと呼んでいます(⑨は「込み栓」と呼ぶと思います)。 漢字では「車知」などと書きますが、当て字です。「差し」から転じて「シャチ」になったのではないか、とも言われています。 こういう仕事が簡単で優れた「継手?仕口」を最近使わなくなりました。 設計者は、そういう仕事のできる大工さんがいなくなったと言い、 大工さんは、そういう仕事が少なくなった、そういう設計が少なくなった、と言います。 どちらの言い分が本当なのかは、明々白々ですよね。 春休み明けです。 もう数十年前のことになりますが、屋外に露出しているベランダの桁が腐ってしまい、自分で修復手術をやってみたことがあります。 本格的修復などできるわけもなく、どこかで見たようなことを、見よう見まねでやってみました。 上の図は、そのときやったことの図解です。番号は、仕事の順です。 図の白い部分が、元の部分。腐った先端を鋸で切り落とし、鋸と鑿(のみ)で、ざっとこんな形に加工しました。ほんとに「ざっと」の仕事です。 黄色の部分が継ぎ足した材料。これも「ざっと」の仕事。 ピタッと合うことなど最初から考えてもいませんから、何とかあわせ、できた継目の隙間に埋木をしました。これも、埋木などと言う名前がもったいないような、かなりいいかげんな埋木です。 埋木を金槌で打ってゆくと、支えていたとはいえ、空中での仕事で上面が少しばかり喰い違ってしまい、途中で平らに直そうとしたのが、驚いたことに、ちょっとやそっとでは動かない。 上面が狂わないような細工をすれば楽だったのでしょうね。もう遅い。 しょうがないのでこれ以上無理だというくらいに目いっぱい埋木を打ち込み、できあがった後で、上面をきたなく削りました。 白い部分は既にある部分ですから、そのまま。埋木を打つと、打込むにつれ、黄色の方の材料は左に寄ってゆきます。黄色の方の先端が相手に着いてもさらに打つと、両者はきつく押される、つまり密着の度合いが強くなります。そうなると、ほとんど一つの材と変らないほどになってしまいます。 それは、想像以上でした。予想外だった、と言った方がよいかもしれません。 これが「栓」の効果なのだ、とそのとき納得したことを覚えています。 おそらく、昔の人も、こんな具合に、「栓」の効用を発見したのでしょう。ところが、これまで見てきた古代からの継手?仕口の中に、それが見当たりません。埋木はありましたが、それは楔としての利用です。 このような栓を打つことで二材を密着させる、という効能を使う例が、いつごろ現れるのか、「文化財建造物伝統技法集成」で調べてみたところ、この書物は寺院建築の事例を集めていますが、室町時代末を過ぎないと現われないようです。 それは多分、まったくの推測ですが、ここで私がやったような継手:「鉤型付き相欠き」(通称「略鎌」)は古代?中世にあったけれども、どの場合も、柱内部で継いでいたからではないか、と思います。継手部が少しの誤差もなくぴったりと着いているとは考えられず、多少の隙があったはずです。しかし、見えないため気にならない。 ところが室町を過ぎるころから、「相欠き」を柱の位置から持ち出した箇所で使う例が出てきます。そういう例から、隙間を埋める必要も生じ、そこから埋木の新たな効能を知った、というように考えられるような気がします。 それはともかく、次回から、このように「二材を引き寄せる役割を持つ栓」を使う「継手?仕口」の例を見ることにします。なぜなら、後の「三方差」「四方差」といった「通し柱」に横材を取付ける「優れものの継手?仕口」が生まれるからです。 上の図版の下段は、「栓」の別の使い方の例。 これは二材を密着させる働きは少なく、柱に差した横材が、柱から抜けないようにするための「栓」の例で、部材の端:鼻(はな)に打つ栓、という意味で、「ほぞ差し?鼻栓(はなせん)打ち」と呼んでいます。 横材を柱から抜こうとするような力がかかると、「栓」と「柱」が喰い込みあって抵抗するのです。ただ、粘り気のない木材(ベイマツなど)には使えません。力がかかると「栓」の位置から先の部分が飛んでしまうからです。 なお、この方法は、農家住宅や町家では普通に見られますが、書院造などでは見えるところでは使っていません。 こういう「栓」は、鉄製の機械などで使われる「ピン」に似た使い方ですが、「ピン」と大きく違うのは、木の「栓」には弾力があることです。 上の写真は、「椎名家」に使われている「鼻栓」の例です。 今回は中世の継手?仕口概観の最後。ス)「慈照寺東求堂(じしょうじ とうぐどう9」、セ)「大仙院本堂(だいせんいん ほんどう)」そしてソ)「新長谷寺客殿(しん ちょうこくじ きゃくでん)」について。 このうち、「新長谷寺客殿」については資料が手許にありません。 今回は、すでに載せた継手?仕口図のほかに、「東求堂」と「大仙院」については、梁行?桁行断面図を載せました。その図の色を付けてある箇所は、小屋裏:天井裏になる部分です。 このス)セ)ソ)の3例は、いずれも「桔木(はねぎ)」によって軒をつくるときの、その下の化粧天井:「化粧垂木」を受ける「桁」(これも「化粧」です)の柱への取付け法と、その継手?仕口の図です。 この手法?方法は、「書院造」に共通の仕様で、「慈照寺東求堂」の例が最初の事例のようです(もちろん現存建物の中で)。 「化粧桁」は、柱の半分ほどの幅で、その幅分柱を欠きとり、そこに嵌め込んでいます。 仕上りは、柱と桁は同面になり、柱が桁を受けていて、柱はそこでとまっているように見えますが、実際は、柱は天井裏へ伸びて「野屋根」の小屋組を支えています。ス)には断面詳細図を載せましたが、ちょっと分りにくいところがあります。 ス)「東求堂」およびソ)「新長谷寺」の柱への桁の取付け仕口は、同じやりかたで、柱の方に広幅の「蟻型」をつくりだし、桁および肘木側に同型の蟻型を彫り、柱の欠き取りを桁および肘木の高さ1個分大きめにつくり、その部分だけ図のように「蟻型」を設けず、そこへ材を押し付け落す、という方法です。「落し蟻」あるいは「蟻落し」と言います。柱の天井裏になったところには、最初に材を押し付ける箇所が彫られたまま残っています。 セ)「大仙院」では、柱全体を「蟻型」につくりだし、そこへ「半蟻」を彫り鎌をつくりだした桁材を落して継ぐ手法をとっています。やはりス)ソ)同様に、「蟻型」のない箇所をつくってあるものと思います。 ス)セ)の化粧の「桁」は、柱~柱が1本で、柱上の「舟肘木」上で継いでいます。「舟肘木」も化粧です。 ソ)の継手には「シャチ栓」が使われています。「シャチ栓」は、後から打込むことによって、2材を引き寄せ密着させる優れものです。室町時代の後期にすでに使われているのです。これについては、いずれ詳しく見ることにします。 この頃までには、工人たちの間では、木材という材料の特徴、その扱い方について、知り尽くされていたのかもしれません。 ス)セ)のように、「舟肘木」に「太枘(ダボ)」や「栓」が用意されているのは、単に「桁」と「肘木」が見かけの上で綺麗に密着することだけを考えているのではなく、この「桁」に強度上の役割を持たせているからだと思います。 すなわち、軸組は下から「足固め」、「内法」、「天井」の三段の貫だけで架構をつくっていますが、「桔木」の部分が、小屋組部分と軸組を結びつける役割をはたしているのです。 これは「大仙院」の断面図でよく分ると思います。 「大仙院」では、小屋組の梁のうち、「桔木」のある箇所の梁は、梁行、桁行とも、中央部:室中の箇所の梁よりも低い位置に架けられています。そうすると、その箇所では、「桔木」と繋ぎの梁が三角形を形成することになります。 そして、「断面が三角形をした立体」が、軸組の低い部分と高い部分の段差の部分で、中央の高い軸組部分の四周をひとまわりする恰好になるのです。 その結果、軸組と小屋組とは一体の立体になることになります。 おそらく、長年の経験で、「桔木」を四周に設けると、単に軒を楽に深く出せるだけではなく、軸組と小屋組を一体化できることを発見していたのではないでしょうか。 そしてそのとき、「化粧垂木」もまた有効であることも気がつき、だからこそ、それを受ける、そして柱列を固めることになる化粧の「桁」にも細心の注意を注いだのだと考えられます。 実際、「書院造」の化粧垂木は、平安時代の細身の「見かけ」のものとは違い、それだけでも荷を背負えるような、しっかりした断面をしています。 いずれもきわめて手の込んだ仕事で、セ)の「内法貫」の継手、僅か1寸(約3cm)厚の貫の継手にこのような細工をするとはまことに恐れ入ります(柱が仕上り4.3寸ですから、貫厚は柱径の約1/4にあたります)。 以上、分る範囲で説明してみました。知れば知るほど、まだ先があるなあ、と思わずにはいられません。 なお、3月いっぱいに締めなければならないことがあるので、しばらくここで休憩いたします。 その間には、次回以降のための新しい資料も手に入るかと思います。 引き続き、ク)からシ)まで。 残念ながら、これらの建物についての資料が手元にありません。そこで、それぞれの建物について知る方策を調べました。以下の通りです。 ク)燈明寺 本堂:とうみょうじ ほんどう 現在は廃寺。元は京都府相楽(さがら)郡加茂町にあった寺です。 現在、横浜の「三渓園」内に移築?保存されています。 この図は内陣のもの。 「文化財建造物保存技術協会」開設の「文化遺産オンライン」で 概略をみることができます。 下記から「燈明寺 本堂」で検索してください。 「文化遺産オンライン 建造物修復アーカイブ」 ケ)久安寺 楼門:きゅうあんじ ろうもん 大阪府池田市にあります。 「久安寺」自体のHPはないようですが、「久安寺」検索で、 いろいろな方の撮られた写真が見られます。 コ)円教寺 食堂:えんきょうじ じきどう 書写山(しょしゃざん)園教寺 所在地:兵庫県姫路市書写。 姫路城の北西にあたる。 総二階建て、長さおよそ40mの建物。 下記から「食堂(じきどう)」の項をご覧ください。 「書写山園教寺」 サ)円成寺 本堂:えんじょうじ ほんどう 本堂は「阿弥陀堂」が正式。 所在地:奈良県奈良市忍辱山町(にんにくせんまち) 奈良盆地の北東、柳生街道沿い。 寺内多宝塔にある大日如来座像は運慶の第一作とのこと。 下記から「本堂」の項をご覧ください。 「円成寺」 シ)不動院 本堂:ふどういん ほんどう 所在地:奈良県 大和高田市(桜井線「高田」駅近く) 本尊:大日如来像(鎌倉時代)ゆえに「大日堂」とも言う。 下記に外観写真と簡単な説明が載ってます。 「奈良の寺社」 恐縮ですが、以下は、図版をプリントしていただき、それを片手にお読みください。 さて、ク)「燈明寺本堂」の「継手」。 二つの継手はともに「鎌継ぎ」。 その内の左側の「足固貫」の「継手」が、どういう場所で継いでいるのか分らない。左側の材を先に据え、それに被せるように右の材を置く。「鎌」が斜めに刻んであるので滑り降りて固く締る。それは分るのだが、ではどこで継いでいるのかが分らないのです。??? 右側の「頭貫」の「継手」については、場所は分りますが、なぜわざわざ手間をかけて「鎌継ぎ」にしたのかが分りません。 柱の側に、「貫」に喰いこむ凸部がありますから、「貫」は落とし込むだけで柱に固定されます。それゆえ、単に「相欠き」にするだけの古代の方法で十分なのではないか、と思えるからです。 それでいて、「斗」は「太枘(ダボ)」で取付ける古代の方法。 ケ)久安寺?楼門の例。 すべて「高欄」の部材の「継手」。いずれもきわめて手の込んだ細工です。 「高欄架木」の「蟻継ぎ」以外は「鎌継ぎ」の各種応用編と言ってよいくらい多様です。 継いだあと、継目に隙があかずに、そして継目が綺麗に見えるように、いかに二材を密着させるか、に意をそそいでいるようです。 これだけの細工をするには、道具も逸品が用意されていたと考えられます。 「地覆」(いわば高欄の束柱を立てるための「土台」に相当する材です)の継手は、いずれも「束」の立つ箇所で継いでいるので、上端に「束」の「枘孔」が彫られています。 一番上の図は、ごく単純な「鎌継ぎ」を下側に設け、上側に「枘孔」を彫っています。 次は「鎌」を微妙な位置で2枚設け、上側に「枘孔」を彫っています。 仕上りの外見は「束」の芯の位置に継目が1本見えるだけです。つまり、両者まったく同じです。両者の材寸が同じですから、同じ「高欄」の「地覆」でしょう。 しかし、この二つをどういう使い分けているのか、分りません。単に、「担当者」の違いなのか? 3番目、継目を斜めにした例。もっとも片側は垂直。これも、どういう箇所でこの方式にしているのかが分りません。 それにしても、二材の狂いをいかに避けるか、その工夫は並大抵ではありません。多分、二材をあてがってみては削り、あてがってみては削り???という作業を何度も繰り返しただろうと思います。へたをすると、一箇所完成するのに一日近くかかったりするでしょう。 「架木」の継手。何の気なしに見ている「高欄」の「架木」が、こんな継手になっているとは知りませんでした。「束」の頭を傷めずに、腰掛けるだけで、しかし二材は継がれている。単純だけれども確実です。 これらを見ていると、工人たちが、いかに綺麗に仕上げるか、楽しみながら、あるいは腕を競いながら、仕事をしている様が目の前に浮かんできます。 コ)円教寺?食堂。 「頭貫」の継手?仕口は、ク)の「頭貫」のそれと同じです。 これを見ていると、この頃になると「鎌継ぎ」「蟻継ぎ」「蟻掛け」の刻みは何の苦もなくできるようになっていたのではないか、と思えます。 とは言っても、Tの字部分も含め、「相欠き」あるいはその応用で済むものを、わざわざ手間をかけるのはなぜなのか、わかりません。 「丸桁」の「継手」を「鎌継ぎ」にするのは、先回のイ)「円光寺」、ウ)「如意寺阿弥陀堂」、キ)「桑実寺本堂」と同じで、化粧に意をつくすためでしょう。 「二重梁」の「継手」は、材の端部を細めていること、同一レベルで交叉しないことをのぞけば「大仏様」の「飛貫」の「継手」と同じです。 この方法は、「埋木?楔」さえ気にならなければ、「差鴨居」の最も簡単な「継手」として応用可能です。 興味深いのは、「野垂木」の「継手」です。 これは、「母屋桁」から持ち出した位置で継ぐための工夫と考えられます。 材寸は高さ2.5寸(約7.5cm)幅2寸(約6㎝)で、決して太い材ではありません。それにこのような細工をするというのは、たしかに確実に継がれ、一材と変らない強度が得られるとは思いますが、現在では考えられません。よほど素性のよい材料でないと、加工中に傷んでしまいそうです。 サ)「円成寺本堂」の例。 ともに「側桁」の「継手」ですが、左側は幅8寸×高さ7.5寸(約24cm×22.5cm)の材を「枘」を2枚にした「柱」の上で継ぐ場合ではないかと思います。 「鉤型付相欠き」を縦方向で使う「継手」は、柱から持ち出した位置で継ぐ時に使うのが普通で、上から荷をかけても曲がらない強い「継手」です。なぜ柱上で使ったのか分りません。 「大仏様」の工人なら、同じ「継手」を平に使って(横位置で使って)、1枚の「枘」で両者を貫く方法をとるものと思います。細工もその方が簡単です。 右側の「継手」は、先の例とは材の幅がひとまわり小さくなっていますから、別の位置の「側桁」で、柱から持ち出した位置で継ぐ例で、多分化粧桁ではないでしょうか。 シ)「不動院本堂」 この図はミリで寸法を表示しています。 「足固貫」「内法貫」は18.1cm×9.1cmの角材。この材を、「大仏様」同様、柱内で継ぐ「継手」と思われます。ただ、先端部に幅1.8cm×奥行2.1cmの凸部:「目違い」を設けている点が違います。「目違い」は、2材が捩れるのを防ぐためのもの。しかし、柱の孔の中で継ぐわけですから、捩れは心配ないはずです。それとも、材の素性が悪く、外で次いでから孔に挿したのか? 「大引」は丸太の上端と下端を平らに仕上げた材を使い(「太鼓落し」などと呼びます)、側の柱で「足固貫」に「鉤型付き相欠き」で交叉させ楔で締めているものと思われます。「大引」の手前は丸柱に取付くように見えますが、その端部の刻みは何のためか、いろいろ考えましたが分りません。 「根太」は幅9.1cm×12.1cmの太い角材です。ここで使われている「継手」は、いわゆる「略鎌」。「大引」上で継ぐ場合を示しているものと思います。 「大引」~「大引」間で「根太」に荷がかかり「根太」が撓もうとしても、この「継手」のかかりの部分が抵抗して、撓みを低減してくれるのです。 ざっと見たところ、この時代になると精緻な細工:刻みが可能になっていることがよく分るのですが、その一方で、そのような細工:刻みをする理由に一貫性がない、あるいは合理的な理由がないように見えるのは、私の思い過ごし:偏見でしょうか。 前回に引き続き、今回は鎌倉時代中頃のオ)「龍岩寺」と、少し間が空いて室町時代初期の、方丈建築最古の建物であるカ)「龍吟庵方丈」、そしてキ)「桑実寺(くわのみでら)」に使われている継手?仕口を見ます。 私の観ているのは「龍吟庵方丈」だけで、図面もこの建物だけ手元にあります。「龍吟庵方丈」については、大分前に「基準寸法」の話で触れていますが、柱間寸法:1間=6尺8寸としていた時代の建物です。また図版もそのときと同じです(「建物づくりと寸法-1????1間は6尺ではなかった」参照)。 オ)の「竜岩寺」の例は「軒桁」「母屋桁」の継手に使われている「鎌継ぎ」で、「角鎌」になっています。 この図だけでは柱との位置関係が分りませんが、おそらく持ち出した位置で継いでいるのではないでしょうか。横3.6寸×高さ3寸という断面からみて、化粧の部材だと思われます。 キ)の「桑実寺の」例では、「頭貫」に、斜めの鎌の「鎌継ぎ」と角型の「鎌継ぎ」の2種類の「鎌継ぎ」が使われています。 2種類使う理由が特にあるようには思えませんから、担当者の任意の判断ではないか、と思います。 中世になっても、「古代鎌」と呼ばれる「角鎌継ぎ」を、あいかわらず使う工人がいたのでしょう。 また「頭貫」の柱への納め方は、図から判断すると、柱の「太枘(ダボ)」で固定しています。これも古代の、しかも初期の方法です。 キ)では、「床根太」「軒桁」そして天井の「格縁」にも「鎌継ぎ」が使われていますが、どれも大きく力のかかる場所ではありません。 なお、「軒桁」の上端に彫られている小穴は、「面戸板」を納めるためのもので、丁寧な仕事です。 一方、足固めには「足固貫」が使われ、「継手?仕口」は「大仏様」で多用されている柱内で「鉤型付きの相欠き:略鎌」で組む方法がとられています。 おそらく、この「桑実寺本堂では、工法について一定の方針があったのではなく、仕上りの姿だけあって、それを何人かの分業で、手法は各自に任せ、その結果、古今の方法が適宜に使われ混在したのではないか、と思えます。 カ)の「龍吟庵方丈」では、「付長押」が室内の意匠に積極的に使われています。 中央の室では、内法上から3段の「付長押」が設けられています。それぞれの「付長押」の内側には、図では分りにくいですが、「貫」が設けられています((「建物づくりと寸法-1????1間は6尺ではなかった」の図版には、位置を示してあります)。 「付長押」は柱の外側に設けられます。そのため、かならずどこかに継目が表れますから(継目が柱の芯位置になるように継がれます)、この継目をきれいに見せる必要があります(書院造では、「付長押」に、各柱ごとに「釘隠し」が飾られますが、これも継目隠しの役があったと考えられます)。 一番の問題は、木材の収縮で、継目に隙間が開いてしまうことです。 木材は一般に長さ方向に縮む傾向がありますから、それを防止するために、このきわめて狭い箇所で「鎌継ぎ」を設け、2材を引張り寄せることにしたのでしょう。 この細工には、きわめて精密な加工が必要で、道具にも相当なものが使われていたと考えられます。 小屋組の「束柱」は「貫」で固められ、その「継手」には、「鉤型付き相欠き:略鎌」が使われています。梁行、桁行の「貫」は段違いに設けられているため、柱内で交叉することはなく、梁行、桁行とも「継手」だけで組まれています。 ここまで見てきたように、「鎌継ぎ」は、中世には、主要構造部ではなく、化粧:見えがかりになる箇所の継手に使うのが普通になっていた、と見てよいようです。 次回もこの続きを。 忘れていました。
「貫」に使われる「鉤型付き相欠き」:「略鎌継ぎ」についての「日本建築辞彙」の解説を転載します。 「略鎌継ぎ」:りゃくかまつぎ 側面に於いて鎌の形を顕す(あらわす)こと図の如し。此継手は通貫(とおしぬき)などにも用ふるものなり。其(その)場合には柱の所に其継手を置くものとす。「眞(しん)鎌継」に対して此(この)名あり。[図は省略] 「眞鎌継」:しんかまつぎ 桁土台などに用ふる継手にして其下には支承物あるものなり。上端は図の如くにして横は突附の如くになしあり。又鎌は上より中程迄ありてそれより下には目違あるのみ。これ「しんつぎ」の一種なり。[図は省略] 「眞継」:しんつぎ 桁などの継手を柱等の如き支承物の上に置きたる場合に之を眞継といひ、支承物を離れて置けば之を持出継(もちだしつぎ)といふ。 [文言追加 3月1日 9.03] 先回載せた「中世の継手?仕口の様態」を少し詳しく見ることにします。 今回はア)からエ)まで。 東大寺再建でいわゆる「大仏様」が寺院建築に使われてから、100年足らずの間の建物がア)~エ)です。 資料にした「文化財建造物伝統技法集成」には社寺の例だけしか載っていませんから、自ずと社寺の例に限られることになります。もっとも、この時代の一般の建物は、現存していませんが???。 ア)~エ)で手元の資料で図面などが見つかったのはア)。 ア)の「大報恩寺本堂」は鎌倉時代前期(初期)、1227年建立の密教寺院で、上の図?写真のような建物です。写真?図は「日本建築史図集」からの転載?編集。 図の左手が南です。 断面図のように、1間四方の「内陣」を囲む3間×3間の堂のまわりに「庇」東、北、西面の回廊)、南面に「孫庇(正面礼拝口)」を設けています。なお、3間四方の部分を「内陣」と説明している資料もあります。 3間四方の平面だけ見れば、「浄土寺浄土堂」と同じです。 右側に、比較のために、同じく3間四方の平安時代末の同様の建物である1160年に建てられた「白水阿弥陀堂」の図を載せました。断面図は、上が縦断図、下が横断図です(大きな平面図?横断図は、「日本の建物づくりを支えてきた技術-11の補足」にあります)。 分りやすいように、これらを時代順に並べれば 「白水阿弥陀堂」1160年 約30余年 「東大寺大仏殿」1190年 「浄土寺浄土堂」1194年 「東大寺南大門」1199年 約30余年 「大報恩寺本堂」1227年 ということになります。 ア)の図は、「大報恩寺本堂」の「頭貫」と「根太」の継手です。 「頭貫」は、古代~平安期の方法ではなく、継手は「大仏様」の「鉤型付き相欠き:略鎌」を使って柱上で継いでいます。 ただ、横腹に凹部をつくりだし、柱側につくられた凸にかみ合わせることで柱に「頭貫」を固定する手法は、古代の手法を踏襲しています(「日本の建物づくりを支えてきた技術-7の補足?続????頭貫の納め方の変遷」参照)。 「浄土寺浄土堂」では、その方法ではありません(「日本の建物づくりを支えてきた技術-22????継手?仕口(6)」参照)。 床部分の図面が梁行断面図しかないのでよく分りませんが、桁行方向には「根太」と上端を揃え、梁行は「大引」上端揃えで「足固貫」を入れているように見えます。あるいは、床高が低いので、梁行は「大引」で兼ねているのかもしれません。 「大仏様」の足元まわりの固め方:「足固貫」の設け方、継手?仕口は、先に見てきました(「???の技術-19????継手?仕口(4):鉤型付きの相欠き」参照)。 「大仏様」以前の「白水阿弥陀堂」の足元まわりの固め方は、少し見にくいかもしれませんが「横断図」の床下で、太い材が柱を挟んで設けられ、その上に、「縦断図」のように、太い「根太」が架けられていることが分ります。この根太も柱を挟んでいます。 つまり、「長押」の手法が床下でも使われていたと考えてよいと思います。 これが、時代的な差によるのか、地域的な差によるのか、「白水阿弥陀堂」に影響を与えた平泉?「中尊寺」ではどうなっていたのか、調べてみようかと思います。 「大報恩寺」の「根太」は、「大引」上ではなく、持ち出した位置で継ぐためにこのような縦方向の「相欠き」手法をとったのだと思われます。 この図の場合は、どちらを先に取付けてもかまいません。しかし、端部に「目違い」(小さな凸部をつくりだし、相手の凹部に納める)を設けてありますから、継ぐ作業は横から水平に材を動かして継ぐことになります。作業のためのスペースが横に必要です。 さらに、納まった上に「栓」も打ってありますから、先ず確実な継ぎ方と言えると思います。 註 鉤型:噛みあい:の部分が、この図では垂直になっていますが、 それを斜めにすると、より確実に密着させることができます。 ただ、噛みあい部分を斜めにすると上木、下木の別がでてきます。 作業は「下木」を据え、次に「上木」を落し込む順番になります。 したがって、横に作業スペースは不要です。 「上木」は、自ずと滑り落ち、少し叩くだけで密着します。 後に「追っ掛け大栓継ぎ」などへ発展する原型と言えます。 次にイ)「円光寺本堂」とウ)如意寺阿弥陀堂」の継手?仕口。 この二つの建物の様子の分る資料が手持ちになく、紹介できません。 しばらく見かけなかった「鎌継ぎ」がこの建物では使われていますが、いずれも主な構造部材には使っておらず、どちらかというと、「見えがかり」が気になる部分に用いているように思えます。 それは、イ)の「垂木」の仕口に表れています。 ここでは、接合部にわざわざ「垂木」を納めるように継がれる2材に「垂木」の仕口を半分ずつ刻むという面倒な仕事をしています。「垂木」を掛けると、継いだ箇所が、下からは見えなくなることを考えたのでしょう。 図がないので分りませんが、継手位置は、多分、柱から持ち出した位置ではないかと思います(折をみて調べてみます)。 ウ)も化粧を意識していて、この場合は、「垂木」~「垂木」の1/2の位置に継目線が来ることを考えているようです。これも持ち出した位置で継いでいるものと思います。 それにしても、この「面戸板」(めんどいた:「垂木」と「垂木」の間にできる隙間をふさぐための板)の細工には恐れ入ります。たしかにこのようにすれば仕上りもきれいでしょう。しかし工事には細心の注意が必要の筈で、工事中に折れなかったのかな、と心配になります。 現在なら、主な構造部材の継手にも使う「持ち出し?鎌継ぎ」は、どうやら、この時代には、「見えがかり」を気にする場所で使うものであって、主要構造部には使わなかったのではないか、と考えられます。 おそらく、近?現代の新興建築家諸氏は、このことを知らず、「見えがかり」の化粧部分を主要構造部であると勘違いしてしまい、平気で主要構造部に使うようになってしまったのではないでしょうか。 エ)の「太山寺本堂」の例は、なんでこんなことをするんだろう、と思ったために載せた例です。 当然これは、人の目につかない天井裏の仕事です。 普通ならこういう縦に分けた「相欠き」ではなく、上下に分けた「相欠き」にするはずです(「台持継」)。 おそらく、上下に分けると薄くなって弱くなる、と考えたのでは、と思います。 それにしても、普通の「相欠き」にしなかったのはなぜなのか、分りません。 ア)の「根太」のような考え方があってもよかったのではないか、と思います。 上部に18㎜角の小さな栓が打ってありますが、これは転倒防止、開き防止のためでしょう。下は「枕木」で位置が固定されますが、上には2材を繋ぐ用意がないからです。 中世の寺院は、密教系が多いのですが、政権の所在地だけではなく、各地域につくられます。 多分、そこでは、寺院建築に詳しい工人とともに、寺院には詳しくない地着きの工人たちもかかわっていたものと思われます。いろいろな手法が見られるのもそのためではないでしょうか。 一方で、そこで技術面の交流が行なわれたと思います。「貫」の効能などは、そういう機会を通じて広まったのでしょう。 昔の人びとは、《偉い人》や「法律」に盲目的に従う、あるいは従いたがる現在の人たち(もちろん全部ではありませんが??)とは違い、自分たちにとっていいものはいい、という真っ当な判断ができた人たちだからです。そういう「自由」が保証されているとき、技術は進展するのだと思います。[文言追加 3月1日 9.03] [図版を濃くしました:22日9.53]
図版の工事が終りましたので、ようやく「続き」に入ります。 長いことかけて「浄土寺浄土堂」をはじめ、いわゆる「大仏様(だいぶつ よう)」と呼ばれる建物のつくり方を見てきました。 そこで改めて気付いたのは、「大仏様」の建物では、それ以前に使われていた「鎌継ぎ」の類が、まったく使われていないこと、そして、これは古代と変らないのですが、柱と柱の間で横材を継ぐ、つまり持ち出したところで横材を継ぐという仕事が一切ないことでした。 その後の時代はどうなのかと考え、「文化財建造物伝統技法集成」を概観して見たところ、鎌倉時代以降の建物では、古代に主要部に使われていた「鎌継ぎ」は、散見されますが、多くは、力のさほどかからない「丸桁?母屋」や「棟木」などに限られるようです。「浄土寺浄土堂」では、その場所にさえ、「鎌継ぎ」を使っていないことは、先に紹介したとおりです。 そして、鎌倉時代以降の建物では、主要部には「大仏様」方式が使われることが多くなっているような印象を受けます。主要な横材:梁や桁などに「鎌継ぎ」を使う現在とは大違いなのです。 「文化財建造物伝統技法集成」の中から、桃山時代までの(鎌倉時代中期~室町時代の)建物の「継手?仕口」について、主に「鎌継ぎ」に焦点をあてて15例を集めてみたのが上掲の図版です。 図版は、同書から転載し、できるだけ分りやすいように編集してあります。 もちろん他にもいくつかあるのですが、これだけでも大きな変遷を見ることができるように思います。図版には、時代順にア)~ソ)の記号を付しています。 なお、これらのうち、私が実際に観ているのはきわめて僅かで、「龍吟庵方丈」「慈照寺東求堂」「大仙院本堂」だけです。 今回は、とりあえず、15例の図を載せるだけにして、次回から数例ずつ見てゆきたいと思います。 [文言追加 17.59][註記追加 18.40][文言追加 19.54] 間が空きましたが、「浄土寺浄土堂」の小屋組の基となる「梁」:「虹梁」をどのように納めているかについて紹介します。 上の写真や以前に紹介した断面図で分るように、「梁」は3段あります。「報告書」では、「側の柱」と「内陣の柱」を結んでいる一番下の「虹梁」を「大虹梁(だい こうりょう)」、二段目を「中虹梁」、三段目を「小虹梁」と呼んでいますので、ここでもその呼称を使います。 各「虹梁」の納め方はほぼ同じ方法の繰り返しと言えます。ここでは、基本となる「大虹梁」の納め方を紹介することにします。 上掲の図版は、写真と図が組になっています。 上の組が、「側の柱」への「大虹梁」の取付けを、「大虹梁」の「内陣の柱」への取付きを示したのが下の組です。 註 写真、図とも「国宝 浄土寺浄土堂修理工事報告書」からの転載です。 なお、図については、「報告書」の「図面編」と「本文編」の図を 集成編集し、加筆してあります。 写真は組立中の写真ですが、「大虹梁~内陣柱」の写真は、 「大虹梁~側柱」に使った写真を、向きを図と同じにするため、 反転して使っています。 [註記追加 18.40] 「側の柱」への「大虹梁」の取付けは次のような順番になります。 「柱」上に「頭貫」を落し込んだ後、「大斗」を据えます。 「頭貫」の納め方の際に説明しましたが、「頭貫」の上端は「柱頭」より一段高くなっています(古代の事例では、普通、「柱頭」と「頭貫」は上端は同一です)。そこへ「大斗」を落し込みます。 「大斗」は上の「分解図」で示してあるような形に加工されていて、「斗」の底部の縁が「頭貫」をまたぐような恰好で納まります。 以前にも触れましたが、古代の「斗」は、底部の「太枘(ダボ)」で脱落を防いでいますが、ここでは「太枘」の必要がありません。「頭貫」の「凹み」に落し込まれ、なおかつ「大斗」は「頭貫」の端部を押え込んだ形になり、脱落はもちろん移動もできなくなるからです。 「大斗」が据えられると、そこへ「大虹梁」の尻(「下小根」にしぼられています)を「大斗」に載せ掛けます。 ただその段階では、梁の長手方向に動くことができ、固定されていません。 そこへ直交する「秤(はかり)肘木」を落し込みます。その部分の「仕口」は「相欠き」で、「大虹梁」の尻は「下木」、「秤肘木」は「上木」に加工されていて、落し込むと「大虹梁」の「下小根」部分と上端はそろいます。 「秤肘木」が「大斗」に刻まれた「凹み」に納まるように「大斗」の位置を調整し(ということは、、「大虹梁」の尻を動かし、「柱頭」の位置を微調整することですが)、「秤肘木」が「大斗」に納まると、「大虹梁」も所定の位置に納まったことになるわけです。 先の「大斗」の固定法と同じように、ここでも、「秤肘木」を落し込むだけで、他に何の細工もせずに、「大虹梁」と「側の柱」は、「大斗」「秤肘木」を介して、所定の位置に確実に固定されてしまいます。 つまり、「秤肘木」は、「巻斗(まきと)」「実(さね)肘木」を経由して「母屋」を支える役割を担うと同時に、「大虹梁」を固定する役割をも担っていることになります。一人で二役ということです。 しかし、先に、「大虹梁」と「側の柱」を固定するわけにはゆきません。 それを先に納めたのでは、「内陣の柱」へ「大虹梁」を取付けることができなくなるからです。 「梁」を架ける前に、「内陣の柱」は既に立っています。「大虹梁」をはじめ、各段の「虹梁」は、「内陣の柱」の側面に挿し込む形になります。 それゆえ、「大虹梁」の取付けは、「内陣の柱」側から仕事を始めることになります。 「内陣の柱」には、同じレベルで3本の「大虹梁」が取付きます。「側」へ向う直交する2本の「大虹梁」と、「隅の柱」へ向う「大虹梁」の3本です。 この3本の「大虹梁」の納め方を図解したのが、下段の写真と図です。 「大虹梁」はいずれも端部を「下小根」にしぼってあります。「小根」の部分の断面の大きさは8寸×4.8寸。ただ、「下小根」の根元部分は、8寸×6.5寸と少し太くしています。「胴付」と見なしてよいでしょう。この太い部分で重さを受けると考えているものと思われます。 直交する2本は、直交させるために、さらにその「下小根」部分を「下木」「上木」にして「相欠き」で交叉させます。 普通、「相欠き」では、「上」「下」同寸、つまり、交叉部を2等分しますが、ここでは「下木」側は欠き込みが3.5寸、残りが4.5寸、「上木」側はその逆で欠き込み4.5寸、残りは3.5寸です。 そして、「上木」側の端部では、図のように、先端の部分:「木鼻(きばな)」と言います:を別誂えにしてあります。 これはなぜか、なぜ2等分の「相欠き」にしなかったのか。なぜ「木鼻」を別誂えにするのか。 これは、隅柱に向う「大虹梁」の取付けのためだ、と考えられます。 「隅行の大虹梁」は、図のように、「胴付」の先は、きわめて薄く厚さ3寸になります。この上に「側へ向う大虹梁」が載る形になるからです。 したがって、「側へ向う大虹梁」のうち、「下木」側の「小根」の部分には、下部に「隅行の大虹梁」の先端部をまたぐ欠き込みが必要になります(斜め45度の欠き込みです)。その欠き込みの深さ寸法は2.5寸(詳細図参照)。 この欠き込みを設けると、等分の「相欠き」だと残りが1.5寸になってしまうため(欠き込みは斜め45度ですから、正確に言うと、全面が1.5寸厚になるわけではありません。1.5寸になる部分が生じる、ということです)、「下木」側の欠き込みを0.5寸だけ小さくして3.5寸にした(残り部分は4.5寸)と考えられます。[文言追加 17.59] そうなると「上木」側の「小根」の先端の厚さが心細い寸法になる。 それが、先端:「木鼻」を別誂えにした理由と考えられるのです。 よく見ると、別誂えの「木鼻」と「上木」側の本体も、「鉤型付相欠き」で継がれるようになっています。 整理すると、手順として、「隅行大虹梁」を柱に挿し、次に「下木」側の「平行大虹梁」を「隅行」の上に載せ掛けながら挿し、その上に載せ掛けながら「上木」側の「平行大虹梁」を挿し、その次に「木鼻」を挿す。 そして最後に「埋木(楔)」を「平行大虹梁」、「木鼻」上に打込むと、ガタガタだった3本の「大虹梁」は「内陣柱」に固定されるのです。「埋木(楔)」がきわめて重要な役割を担っていることになります。 ただし、この「埋木(楔)」の打込みは、それぞれの「大虹梁」の「側の柱」への固定が終ってからです。 後世になると、「木鼻」を単に形を整える「化粧」のために取付ける例が増えてきますが、この「木鼻」は、そうではありません。「木鼻」を挿し、「埋木(楔)」を打ってはじめて「大虹梁」が柱に固定されるようになっているからです。「木鼻」もまた大事な役割を担っていることになります。 結局のところ、「浄土寺浄土堂」は、「仕口」は「相欠き」、「継手」は「鉤型付相欠き」だけで組み上がっていることになります。 そして、どの部材も、役割を持っていて、遊んでいる材は一つもない、と言ってよいでしょう。[文言追加 19.54] しかし、これには「綿密にして緻密な計算」がなければ行ない得ません。それには、当然ながら、どのような順番で仕事をするか、についての「計算」も含まれています。 この目配り?気配りには、そして一から十まで見通す洞察力には、ただただ感嘆するのみです。 どう考えても、突然こういう仕事はできない、かなり手慣れていたのではないか、と思うのはそのためです。 振り返ってみて、こういう無駄のない、真の意味で合理的な設計(当然、施工までを含めての「設計」です)をしてきただろうか、と思わざるを得ません。 |
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