参考は横山昭男の『上杉鷹山』(吉川弘文館) 【藩主直属】
米沢藩の首脳部は、奉行(三人)、江戸家老(二人)、侍頭(五人)の計十人で構成される。奉行職は上杉定勝の代に新設され、他藩の国家老に相当した。侍頭は五組編成になっている侍組の各組の番頭である。これらの重職には藩内の上士階級である侍組の中でも特に家柄の高い家である分領家のみが就任することができる。分領家は全部で十四家あるが、謙信?景勝政権下では外様扱いであった揚北衆や信濃衆出身の家が多くを占めている。しかし、奉行職については寛政10年(1798年)に馬廻組出身の莅戸善政が奉行に登用され、慣行が破られることになる。 なお、宝暦元年(1751年)に中老職が新設されたが、一時期廃止される。寛政3年(1791年)に莅戸善政と登用をもって復活する。 小姓頭は江戸の須原茂兵衛版武鑑では『用人』と表記された職で当初、侍組しか就任できなかったが、与板組出身で侍組に昇格した森利貞(平右衛門)の登用で慣行が破られる。なお、越後長岡藩においても『小姓頭』という職があり、こちらも用人(長岡藩では用番と呼称)を兼帯している。 役屋将は、藩境の高畠(のち糠野目)、中山、鮎貝、荒砥、小国の5箇所の要地に置かれた陣屋の城代を上杉綱憲が改称したものである。侍組から任命され、30~40人の足軽を配下に置き、藩境の警備や旅人?貨物の取締りを担当した。 【奉行配下】
なお、仲之間年寄は三人、町奉行は二人、郡奉行は二人であった。郡奉行は一時期廃止される。また寛政3年(1791年)年の改革で郡奉行は六人年寄の兼務とし、勘定頭は桜田屋敷将と桜田納戸頭を兼務することになった。仲之間年寄は六老とも言われる。なお、先述の小姓頭同様に江戸中期以降の武鑑では仲之間年寄と大目付は「用人」として表記されている。 【大目付配下】
【勘定頭配下】
【郡奉行配下】
代官は上杉定勝の時に新設されたが、当初は世襲制であった。安永元年(1772年)に代官世襲制が廃止される。 【小姓頭配下】
【役屋将配下】
役屋付は、役屋を助けて領内の取締りを強化するために街道沿いの38箇所に設置された口留番所の役人で、三扶持方から各番所に1~2名が配置された。先に設置された板谷、綱木、花沢、糠野目、掛入石中山、小滝、荻野中山、大瀬、栃窪、玉川、蓬生戸、折戸、黒鴨、筑茂、爼柳の15箇所を本口番所、後に設置された梓山、中荒井、荒井、上片子、下片子、矢木橋、新藤台、鉄砲町、芦付、一本松、上窪田、下窪田、外ノ内、福沢、大橋、椚塚、十分一、大洞、金山、高岡、田尻、烏川、平田の23箇所を藪口番所と呼んだ。 |
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