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孔子三见老子,老子三段话,道尽天道玄机/孔子は三つ老子を見ます,老子の三段の言葉,道は天道のからくりを尽くします

 时间太快6825 2024-03-30 发布于安徽

第一次会面。

历史上孔子第一次会见老子时,老子还在周王朝藏书室中做史官。

这次会面孔子除学到了很多礼制制度外,对孔子感悟最深的应该是老子的这段话,这也正是“上善若水”的精髓。

两人离别时,老子指着黄河说道:“你为何不能学习水的德行呢?”

孔子不解,问道:“水的德行又是怎样的?”

老子回答说:

“善行的最高境界就像水一样,滋润万物而不争名逐利,处于天下众生所厌恶的地方,反而更接近于道,这是谦虚的德行。

江河之所以能够成为一切河流的归宿,是因为它善于处在下游的位置上,成为百谷之王。

天地之间,最柔弱的东西莫过于水,但是它却能穿透最坚硬的事物,水滴石穿。

可见,柔能克刚,弱能胜强。

不见具体形状的东西,可以进入到没有缝隙的东西中去。

由此可知,无言的教化和无为的益处更甚于有为。”

初めて会いました。

歴史上、孔子が初めて老子に会ったとき、老子は周王朝の蔵書室で史官をしていました。

今回孔子に会って多くの礼制制度を学んだ以外、孔子に対して悟性の最も深いのは老子のこの話であるべきで、これもまさに「上善若水」の神髄です。

二人が別れるとき、老子は黄河を指して言いました。「なぜ、水の徳を学べないのか。」

孔子は首をかしげて、「水の徳目とはどのようなものですか?」

老子は答えます。

「善行の最高の境地は水のようなもので、万物を潤して名を争わず利を追う、天下の衆生が嫌うところにあって、かえって道に近い、これは謙虚な徳目です。

川がすべての流れの場所になることができるのは、川が下流の位置に立つことが上手で、百谷の王になるからです。

天と地の間で、最も弱いものは水に勝るものはありません、しかしそれは最も堅いものを貫通することができて、水滴石穿きます。

柔は剛を制し、弱は強に勝つということです。

形の見えないものは、隙間のないものの中に入ることができます。

よって、有為よりも無言の教化、無為の益の方が大きいことがわかります。

孔子恍然大悟,说:

“先生的话使我茅塞顿幵。天下之人都高高在上,只有水处在下方。

天下之人都喜欢安逸,只有水处于艰险;天下之人都喜欢洁净,只有水处在污秽之中。

水趋向的处境都是天下人厌恶的,所以没有人能与之相争,这就是最高境界的善。”

老子接着说:

“当你不与天下人相争时,天下将没有人能与你相争,这就是效仿水德行事。

水最接近于道,道无处不在,水无所不利。水避高趋下,从不回流,善于利用地势的起伏。

你看那深潭中的一汪碧水,表面淸澈而平静,却是那样的深不可测。

水也会有流失,但却从不会枯竭。

默默无闻的滋润万物,却不求回报,这就是水至善至仁的品格。

它遇到圆形障碍就绕其而行,遇到方形障碍就折回而走,遇到堵塞就暂时停止,一旦出现决口就浩荡奔流,这就是水的信誉。

它能洗涤肮脏污秽,能使崎岖的地势趋于平缓,这就是水的能力。

它用浮力载物,用清面照人,用坚毅的恒心克服障碍,这就是水的长处。

它日夜而人、贤人和聪明的人都善于选择时机,能随机应变、顺天应时,就像皓皓明月,静观世事沧桑。

孔子はハッとして言いました。

「先生の言葉で幵塞頓氏になりました。天下の人はみな上にいて、水だけが下にいます。

天下の人はすべて安逸が好きで、水だけが困難で危険です;天下の人は清らかさを好み、水だけは穢れの中にあります。

水が向かう境遇は天下の人が嫌悪するので、誰も争うことはできません。これが最高の善です。」

老子は続けて言います。

「あなたが天下人と争わなければ、天下の誰もあなたと争うことはできません。これが水徳にあやかって事をなすということです。

水は道に最も近くて、道は至る所にあって、水は不利なところがありません。水は高走を避け、還流せず、地勢の起伏をうまく利用しています。

あなたはあの深い淵の中の1汪の碧水を見て、表面は澄んで穏やかで、しかしそのような深さは計り知れません。

水が失われることはあっても、枯渇することはありません。

鳴かず飛ばずで万物を潤して、見返りを求めないで、これは水の善至仁の品格です。

丸い壁にぶつかったらその周りを通り、四角い壁にぶつかったら引き返し、詰まったらいったん止まり、決壊したら大きく流れる、これが水の信用です。

汚れや汚れを洗い流し、険しい地勢を緩やかにしてくれるのが水の力です。

浮力で物を運び、きれいな顔で人を照らし、毅然とした心で障害を克服するのが水の長所です。

昼夜を問わず、賢人や聡明な人は、時機を選び、臨機応変に、天に応じて、月のように世の変転を静観しています。

你现在冋去,应该戒骄戒躁。

要不然,你人还没到,名声就已经传来,身体还未动,声势已经先行,张张扬扬,就像老虎走在大街上。

这样,谁还敢用你呢?”

孔子听后恍然大悟。

あなたは今冋に戒骄戒躁なければならない。

そうでなければ、まだ来てもいないのに、名声が伝わってきたり、体が動いてもいないのに、勢いが先行して、威勢が高くなってきたりして、まるで虎が街を歩いているようなものです。

このように、誰があなたを使う勇気がありますか?」

孔子はそれを聞いて「なるほど」と思いました。

两人第二次会见,是在老子辞官回到故乡苦县曲仁里。

这次会见,两人谈到了仁义,但老子并没有认同孔子所言的仁义。

在老子看来,这扰乱了人的本性,人应该顺应自然。

老子说:

“人出生在世界上是—种自然现象,因此人的行为也要顺应自然规律。

你看,天地按自然规律运行,日月星辰按次序周而复始的运转,飞禽走兽按彼此的生存之道和谐共处。

这并不是人为的刻意安排, 而是它们遵循自然之理,按天性生存、发展。”

人生于宇宙之间,和天地万物一样有属于自己的生存之理。

人的生、死、荣、 辱,都应遵循自然之道。

顺天而行,顺理而作,任凭人们按自己的喜好自得其乐,人的本性就显示出来了。

人为的标榜仁义的结果,只能离仁义越来越远。

你苦苦求索仁义,意在实现人的本性,可结果却适得其反,扰乱了人的本性。”

二人の第2回の会見は、老子が官を辞して故郷の苦県曲仁里に帰った時です。

この会見で二人は仁義について語りましたが、老子は孔子の言う仁義を認めていません。

これは人間の本性を乱すものであり、自然に順応すべきだと老子は考えています。

老子は言います。

「人が世界で生まれたのは—一種の自然現象なので、人の行働も自然の法則に順応しなければなりません。

ごらんなさい、天と地は自然の法則によって運行して、日月と星と星は順序によって回り始めた運行して、鳥と獣はお互いの生存の道によって調和して共存します。

これは人為的なものではなく、自然の理に則り、自然のままに生き、発展しているのです。

人生は宇宙の間で、天地の万物と同じに自分の生存の理に属します。

人の生、死、栄、辱はすべて自然の道に従うべきです。

天に沿って行い、道理に沿って行い、人々が自分の好きなように楽しむに任せて、人間の本性が現れます。

人為的に仁義を標榜した結果、ますます仁義から遠ざかるしかない。

あなたは仁義を求めて人間の本性を実現しようとしますが、それがかえって人間の本性をかく乱してしまいます。

两人第三次会面是在很多年后了,此时孔子已闻名于世,老子隐居于世。

这次,主要探讨的是何谓天道。

对此,老子说:

“阴阳之道,深不可测,人有眼睛却看不见,有耳朵却听不到,有语言却不能传授,是平常人的智慧所不能理解的。

因此,所谓的得道并非真正得道,而只是体道。

假若你像认识宇宙中的有形事物一样去认识它,借助于眼、耳和语言,那将永远无法懂得道。

求道的关键在于内心的觉悟,如果内心体悟不到道的存在,道将不能保留。

心中体悟到了道的存在,还要在现实中进一步印证,得不到现实印证的道,不能畅通无阻的前进。

这就是得道的圣人虽内心有所领悟,却不能为外人道的原因。

一个人仅仅希望能从外界获得关于道的认识,而不去用心体会,即便是圣人也不愿意教授他。”

学问渊博也不一定懂得大道,就像擅长辩论的人不一定有智慧一样。

无用的知识和辩术早已被圣人所摒弃,所以得道的圣人总是处于一种体悟大道的状态。

道,渊深似海,高耸如山,周而复始循环运转,主宰万物并赋予万物以永无穷尽的动力。

宇宙万物,都是因为有了道的给予,才不至于匮乏。

老子三段话,道尽天道玄机,孔子获益良多。

二人が三回目に会ったのは数年後で、この時孔子はすでに世に有名で、老子は世に隠棲しました。

今回は、天道とは何かということです。

これに対して、老子はこう言います。

「陰陽の道は、深くて底が知れず、人は目があっても見えず、耳があっても聞けず、言葉があっても教えることができず、普通の人の知恵では理解できません。

したがって、得道とは真の得道ではなく、ただ体道でしかありません。

もしあなたが宇宙にあるものを、形あるもののように認識しているとしたら、それは目や耳や言葉によって、永遠に理解することはできません。

求道の鍵は心の覚悟にあり、心が道の存在を悟らなければ、道は保てません。

心の中で悟った道は、現実の中でさらに実証され、実証されない道は、スムーズに進むことができません。

これが、道を得た聖人が、心の中では悟っていても、人の道を説くことができない理由です。

人は道についての認識を外から得ようとするだけで、心の中で体得しようとしないので、聖人でも教えたがらないのです」

議論のうまい人が必ずしも知恵を持っているとは限らないのと同じように、学問が深くても道がわかるとは限らないのです。

無用な知識や弁術はすでに聖人に切り捨てられていますから、道を得た聖人は常に悟りの状態にあります。

道、深くて海のようで、高くて山のようで、回り始めて循環して回って、万物を支配してそして万物に永遠に尽きる働力を与えます。

宇宙の万物、すべて道の与えることがあるため、やっと欠乏しません。

老子の三段の言葉は、天道のからくりを語り尽くしているので、孔子も多くのことを学んでいます。

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