第9世 开化天皇( 前208年-前98年),前158年-前98年在位,共60年。
第10世 崇神天皇,前98年-前30年在位,共68年。
第11世 垂仁天皇(公元前69年-公元70年),公元前29年-公元70年在位,共98年。
第12世 景行天皇(公元前13年-公元130年),公元71年-130年在位,共59年。
部分学者专家对印章的真伪提出质疑 因为在《后汉书·光武帝本纪》和《后汉书·东夷传》中记有汉光武帝“建武中元二年(公元57年)倭奴国奉贡朝贺,使人自称大夫,光武赐以印缓。”这一枚金印作为中日两国最早交往的证明,成了日本国宝。但是,一直以来日本的中国史专家对此存有疑惑。他们首先怀疑的是这枚金印的真伪,在金印发现的那个时代,已经有伪造这一枚小小金印的技术,因此,金印到底是不是中国之物让人怀疑,或者这印章本就是时人为了某种目的而故意伪造。 持怀疑态度的学者认为金印上所刻的是“委”而不是“倭”字。在《后汉书》关于委奴国,除光武帝赐委奴国王印缓,及“永初元年(公元107年)侵王帅升等献生口百六十人,愿请见”的记载而外,再没有其他记载。学者认为“委”字作委任解,即将印上文字解释为汉朝委任的奴国国王。 反驳这一说法的学者表示,从汉代及之后相当长时期内中国王朝对外派送的印信中从未有作委任解的“委”字先例。多数学者认为“委”和“倭”相通,“委奴国”即“倭奴国”。但是,“倭奴国”究竟是一个国家的名称,还是“倭”之“奴国”的意思呢,这又存在较大分歧。 据《三国志·魏志·倭人传》载,魏明帝时曾封邪马台国王卑弥呼“亲魏委王,假金印紫缓”。然而,中国王朝对外赐予封号一般都采用二断的称呼,如“汉·匈奴·左贤王”,由此,“倭奴国”便成为一个不能完全等同于《魏志·倭人传》中“奴国”的名字。 考证分析 汉光武帝所授日本汉委奴国王金印由这枚金印引起的争论使这枚金印的传说也变得神乎其神。但随着中国两颗汉代印章的相继发现,谜底正在逐渐揭开。 1956年,云南省晋宁县石寨、山西汉古墓群的滇王墓中,出土了一颗汉武帝刘彻赐给滇王尝恙的金印“滇王之印”。滇王是汉代西南诸侯中最强的国家之一, 史记中有“西南夷长百数,独夜郎、颠受王印”之载。出土的这颗金印亦为纯金铸成,蛇钮,长宽各2.3厘米,通高2.2厘米。据考证,此印确是汉武帝所赐“滇王之印”。而这颗金印无论质地、字体、印钮和尺寸大小,均与日本出土的“汉委奴国王”金印相同。 1989年,福冈市举行亚太博览会,要把两印同时展出,南京博物院同意了。其间名古屋博物馆要借展广陵王玺,南京博物院也同意了。福冈博览会后,广陵王玺转到名古屋。此前,要准备一个图录,名古屋方面派照相专家来福冈拍照。当把两颗印摆得很近的时候,两印之间出现了在北极和南极常见的日本发行的邮票那种极光,此后极光慢慢消失。有人说这是研究家的热情给了出土文物以新的生命。 两枚金印的出土大大的增加了“汉委奴国王”印的真实度。因为经专家考证,汉制赐给太子及诸侯王的金印,一般是龟纽,赐给臣服国国王的印纽则多用蛇、芋、骆驼等造型,中日两国出土的这三枚金印均符合汉制,而且中国发现的两个金印均被考证为真。 “汉委奴国王”这方金印经与史籍的参照印证和与“滇王之印”、 “广陵玉玺”的对比分析,其可靠性已初步得到证明,由此也进一步证实了中日两国交往的渊源关系。
来歴[ソースを編集] 1931年(昭和6年)に、この金印が当時の国宝保存法に基づく国宝(文化財保護法の「重要文化財」に相当)に指定され、世に知られるようになった。金印の出土地および発見の状態は詳細不明。福岡藩主黒田家に伝えられたものとして明治維新後に黒田家が東京へ移った際に東京国立博物館に寄託された。その後福岡市美術館の開設に際して1978年(昭和53年)に福岡市に寄贈され[2]、1979年(昭和54年)から福岡市美術館、1990年(平成2年)から福岡市博物館で保管? 出土地[ソースを編集] 志賀島の金印公園 漢委奴国王印出土推定地。 1914年(大正3年)、九州帝国大学の中山平次郎が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)と推定した。その推定地点には1923年(大正12年)3月、武谷水城撰による「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立された。その後、1958年(昭和33年)と1959年(昭和34年)の2回にわたり、森貞次郎、乙益重隆、渡辺正気らによって志賀島全土の学術調査が行われ、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の、叶ノ浜が適しているとの見解が提出された[3]。 1973年(昭和48年)及び1974年(昭和49年)にも福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されている。 発見の状態について[ソースを編集] 江戸時代天明年間(天明4年2月23日(1784年4月12日)とする説がある)、水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。発見者は秀治?喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説もある。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていた。発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は『後漢書』に記述のある金印とはこれのことであると同定したという。 なお、糸島市の細石神社には、「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたが江戸時代に外部に流出したとの伝承(口伝)がある。 外形[ソースを編集] 1931年(昭和6年)に、金印が当時の国宝保存法に基づく国宝(文化財保護法の「重要文化財」に相当)に指定されたため、帝室博物館員入田整三が金印を測定し、「総高七分四厘、鈕高四分二厘、印台方七分六厘、重量二八.九八六六匁」の結果を得ている[4]。 1953年(昭和28年)5月20日、戦後初めて金印の測定が岡部長章(最後の岸和田藩主岡部長職の八男)によって試みられた。「質量108.7グラム、体積6cc[5]、比重約8.1」、貴金属合金の割合を銀三分、銅七分を常とする伝統的事実からして22.4Kと算定した。 1966年(昭和41年)に通商産業省工業技術院計量研究所(現独立行政法人産業技術総合研究所)で精密測定された。印面一辺の平均2.347cm、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く印台の高さ平均0.887cm、総高2.236cm、重さ108.729g、体積6.0625cm3。紐は身体を捩りながら前進する蛇が頭を持ち上げて振り返る形に作られた蛇紐である。蛇の身は、蛇特有の鱗ではなく、円筒状の工具を捺して刻んだ魚子文で飾られている。蛇紐は漢の印制とは合致しないが、現在確認されている印を眺めると、前漢初めから晋代までで26例知られ、前漢初期に集中しているものの、後漢以後でも13例知られている。駱駝紐が、北方諸民族に与えられるのに対し、蛇紐は南方諸民族に与えられた可能性が高い。日本は中国の東に位置し矛盾するように見えるが、この頃の中国は倭を南方の民族と誤解していたためだと考えられる。辺の長さは後漢代の1寸(約2.304cm)に相当する。1994年(平成6年)の蛍光X線分析によると、金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他不純物として水銀などが含まれ、中国産の金と推定される。 現在使用されている印鑑とは違って中央が少し窪んだ形状になっているとして、これを封泥用の印であるとする人もあるが、1世紀の倭国内に木簡にしろ書簡にしろ封泥で閉じて通信するための権力指令伝達機構や封をして読まれることをさけなければならないほどの識字率と広範な文字文化が既にあったと唱える研究者は現在のところない。金印と同時代に中国から下賜されたとされる鏡やのちの律令国家で正当な権力であることを保証し見せる駅鈴のような、「これを持っていること(見せること)がすなわち権力のあかし」である用途であったと推察されることもある。反対に、後漢との正式な文書外交の展開を想定し、恒常的な外交交渉を円滑に行うため、外臣と言えども漢の役人として印の使用を求められたとする意見もある[8]。 「委奴国」は「倭国」と同じで「やまとのくに」と訓じる説 - 亀井南冥、竹田定。これは現在ではほとんど言及されない。 金印における「委奴」を『漢書』の「倭奴」の略字とし(委は倭の減筆)、「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じる説 - 落合直澄、三宅米吉[11]など。三宅は「奴」は儺津(なのつ)?那珂川の「ナ」で、倭の「奴国」を現在の那珂川を中心とする福岡地方に比定した。教科書などでも一般的にはこの説が通説となっている。 「委奴」を「いと」と読み、「漢の委奴(いと)の国王」とする説 - 藤貞幹[12]、上田秋成[13]、青柳種信、福岡藩、久米雅雄、柳田康雄など。「委奴の国」を『三国志』「魏書東夷伝倭人の条」の伊都国に比定する[17]。 |
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