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孔子的药方/孔子の処方箋です

 时间太快6825 2024-05-27 发布于安徽

先说孔子的药方。

孔子能为有病的社会开出药方吗?很多人认为能。孔子自己这么认为,他的崇拜者和追随者也这么认为。有一次,孔子路过卫国边境上一个叫做“仪”的小城。小城有个小官,叫“仪封人”。封,就是封土植树。封建时代,国与国之间的边境线,要挖沟,封上土,再种上树。仪封人,就是管仪城这些树的,也就是管仪城边境线的。此人也是个追星族。但凡路过仪城的名人,他都要见,因此也要见孔子。见了以后,佩服得五体投地,对孔子的学生们说:诸位不要因为一时半会做不到官,就有失落感吧?(二三子何患于丧乎)天下无道已经很久了,老天爷正要让你们的老师当木铎呢!(《论语·八佾》)木铎,就是带木舌的金属铃铛。古代公家有事,要摇这铃铛;使者出行,也要摇这铃铛。所谓“天将以夫子为木铎”,也就是要孔子代天立言、替天行道了。

既然如此,孔子也就不能不拿出他的药方来。当然,这个药方,也只是他自认为找到了,当时并不管用。但是,这个当时并不管用的药方,后世却有人认为管用。直到现在,也有人认为有用,还主张拿来治现在的社会病。

那么,孔子的药方是什么呢?

也只有一个字:仁。

まず孔子の薬の処方です。

孔子は病気の社会に処方箋を出してくれたのですか?多くの人ができると思っています。孔子自身もそう思っていますし、彼の崇拝者や信奉者もそう思っています。孔子はあるとき、国の国境にある「儀」という小さな町を通りました。「儀封人」という小官がいました。封とは、封土植樹のことです。封建時代、国と国との国境には、溝を掘り、土を封じ、木を植えました。儀封人、管儀城のこれらの木の、つまり管儀城の国境線のです。この人もかなりの追っかけです。儀城を通る名人には必ず会い、孔子にも会いました。それを見て、すっかり感心して、孔子の学生たちに言いました。「諸君、すぐに役人になれないからといって、がっかりするな。(二三子は何を喪に病むか)天下に道はなくて久しい、天はあなたがたの先生を木鐸にしようとしています。<論語>パルイルム)木鐸とは、木の舌がついた金属の鈴のことです。昔、公家に用があって、この鈴を鳴らしました。お使いがお出かけになるときも、この鈴を鳴らします。「天将以夫子為木鐸」とは、孔子が天に代わって言を立て、天に代わって道を行えということです。

こうなれば、孔子も処方箋を出さないわけにはいきません。もちろんこの処方も、自分で見つけたと思っただけで、当時は効き目がありませんでした。しかし、当時は効き目のなかったこの処方が、後世になって効き目があると思われるようになりました。今でも役に立つと思って、今の社会病を治そうと主張する人がいます。

では、孔子の処方とは何でしょうか?

「仁」としか書きません。

什么是“仁”?简单地说,就是“爱人”(《论语·颜渊》)。这是孔子对樊迟的回答。樊迟,前面说过,就是因为要学农,而被孔子骂作小人的那个。孔门弟子三千,被宣布为可以挨揍的有一个,挨骂的有三个。可以挨揍的是冉有,原因在本节的最后部分会说。挨骂的三个,是子路、宰予、樊迟。其中,子路挨骂最多,宰予最惨,樊迟也因为问题不靠谱挨了一次骂。其实樊迟在《论语》中出现六次。其余五次,一次问孝,一次问修行,三次问仁。问仁的三次,两次同时问知,都很靠谱。问修行的一次,还被孔子表扬为“善哉问”(《论语·颜渊》)。可见樊迟也是好学生。

樊迟向孔子问仁,孔子怎么说?樊迟问了三次,孔子有三种回答。这也不奇怪。孔子的学生问仁,往往是问“怎样才能做到仁”。孔子回答的,也都是这个问题。不同的时候不同的人,有不同的情况,所以孔子的回答也不同,不能拿它们当定义。

比较接近于定义的,就是“爱人”。我们来看孔子怎么说。据《论语·颜渊》,樊迟问仁,孔子说“爱人”;又问知(智),孔子说“知人”。樊迟不明白(樊迟未达)。孔子就又说:“举直错诸枉,能使枉者直。”枉,就是弯曲;直,就是平直;举,就是拿、把、将;错,就是措,也就是放置、安放、安排;诸,就是之于,也就是“它在”。所以,这句话直译过来就是:把平直的放在弯曲的上面,就能使弯曲的变成平直的。

「仁」とは何ですか?簡単に言えば「愛人」です(『論語』顔淵)。これが孔子の樊遅への答えです。樊遅というのは、前にもいったように、農民を学ぼうとして、孔子に小人と叱られた人です。孔門の弟子は三千、殴られてもいいと宣告された者は一人、叱られた者は三人です。殴られていいのは冉です。理由はこの節の最後に述べます。叱られたのは、子路、宰予、樊遅の三人でした。子路が一番叱られ、宰予が一番叱られ、樊遅も問題があやふやで、一度は叱られました。実は樊遅は『論語』に六回出てきます。残りは五回、一回は孝、一回は修行、三回は仁です。仁さんに三度、二度と同時に聞いても、しっかりしています。修行を問うと、孔子から「善き哉を問う」とほめられました(『論語』顔淵)。樊遅も優秀な学生でした。

樊遅が孔子に仁を問うと、孔子は何とおっしゃいましたか。樊遅が三度問うと、孔子は三つの答えを述べました。不思議ではありません。孔子の生徒が仁を問うのは、往々にして「どうすれば仁になれるのか」という問いです。孔子の答えも、すべてこの問いでした。異なった時異なった人、異なった情況があって、だから孔子の答えも異なって、それらをもって定義することができません。

定義に近いのは、「愛する人」です。孔子はこう言っています『論語』の顔淵によると、樊遅が仁に尋ねたところ、孔子は「人を愛する」と言いました。知(智)を問うと、孔子は「人を知れ」と言いました。樊遅わかりません(樊遅未達)。孔子はまた言いました:「直を挙げて諸枉げを誤り、枉げた者を直にさせることができる。」枉げて、曲がります;まっすぐで、まっすぐです;挙げて、持って、把、将です;錯、措、つまり置く、置く、手配します;諸とは、於、つまり「在る」ということです。つまり、曲がったものの上に平らなものをのせると、曲がったものがまっすぐになるのです。

这话没头没脑,不要说我们听了不明白,就是樊迟听了,也是一头雾水。但是樊迟不敢再问,只好退出来问自己的同学子夏。子夏悟性好呀!他能从美人的笑容和眼睛(巧笑倩兮,美目盼兮)想到“礼”,大受孔子表扬,所以樊迟要请教子夏。子夏怎么说呢?子夏说,哎呀,老师的话,内容太丰富了,太深刻了(富哉言乎)!想当年,舜帝和汤王,在千百万人当中搞海选,选出最有仁德的皋陶和伊尹,那些邪恶的人就都跑掉了嘛(不仁者远矣)!

按照子夏的这个说法,所谓“举直错诸枉”,就是“把正直的人提拔起来,安排在邪恶的人之上”。后世许多学者,就是这样翻译的。但这有问题,因为孔子后面还有话,即“能使枉者直”。这话按照前面的理解,就应该翻译为“能够使邪恶的人变得正直”,而不是“邪恶的人就都跑掉了”。事实上,舜帝和汤王选贤任能的结果,也只是“不仁者远矣”。那些“不仁者”改邪归正,变仁变直了没有?好像没有。这就不能算是“能使枉者直”。所以,子夏的解释,也只是他自己的理解,未必是孔子的原意。

私たちが聞いてもわからないどころか、樊遅が聞いてもわからない話です。しかし、樊遅はそれ以上問うことができず、やむなく引き下がって、同じ学生の夏に問うことにしました。子夏の悟性は良いです!美人の笑顔と目(巧笑倩兮、美眼盼兮)から「礼」を思いついたと孔子にほめられたので、樊遅は子夏に教えを請うたそうです。子夏はどう言っていますか?子夏は言って、まあ、先生の話、内容が豊富すぎて、深刻すぎます(富哉言乎)!当年を思って、舜帝と湯の王、千百万人の中で海選をやって、最も仁徳の皐の陶と伊尹を選んで、あれらの邪悪な人はすべて逃げました(仁者が遠くなりません)!

子夏のこの説によれば、いわゆる「挙直誤諸枉げ」とは、「正直な人を取り立てて、邪悪な人の上に配置する」ことです。後世の多くの学者は、このように翻訳しました。しかし、これは問題です。孔子の後に「枉げる者を直せ」という言葉があるからです。これは先の解釈に従えば、「邪悪な者を正直にさせることができる」と訳すべきで、「邪悪な者はすべて逃げてしまう」と訳すべきではありません。事実、舜帝と湯王の選賢任能の結果、同じくただ「不仁者遠矣」です。あれらの「不仁者」は改心して正して、仁になってまっすぐになりましたか?ないようです。これでは「枉げる者を直せ」とはいえません。だから、子夏の解釈は、彼自身の解釈であって、必ずしも孔子の本来の意味ではありません。

其实依我看,这事也不可太拘泥,认死理。也就是说,我们不必一定按照子夏的说法,把“枉”认定为邪恶的人,把“直”认定为正直的人,也可以做更宽泛的理解,解释为“错误”和“正确”,或者“错的”和“对的”。如此,则孔子的话就可以这样翻译:用正确的替代错误的(举直错诸枉),就可以改正错误(能使枉者直)。

这就是开药方了。实际上类似的话,孔子还在别处说过。据《论语·为政》,鲁哀公曾经向孔子问政。鲁哀公是在公元前494年,即孔子五十八岁那年即位的。当时孔子正在卫国做官。哀公问政,应该是公元前484年孔子回国以后。哀公问怎样才能让人民服从(何为则民服),孔子的回答,是“举直错诸枉,则民服;举枉错诸直,则民不服”。这句话按照我的理解,就可以翻译为:用正确的替代错误的(举直错诸枉),民众就心悦诚服;用错误的替代正确的(举枉错诸直),民众就不会服从,或者口服心不服。这岂非开药方?

那么,什么是正确的(直),什么是错误的(枉)?

很简单,礼,是正确的,是“直”。非礼、失礼、乱礼、坏礼,都是错误的,也都是“枉”。为什么呢?因为在孔子他们看来,礼,不但是“礼”,也是“理”;即不但是礼貌、礼仪,也是真理、道理。真理都是正直的,所以“礼”也是“直”。相反,礼坏乐崩,当然是“枉”。枉则曲,直则正,理直则气壮。因此,一个君子或者有志之士,面对礼坏乐崩之“枉”,就应该理直气壮地“举直错诸枉”,用正确的“礼”取代不正确的“非礼”。

私の考えでは、この事もあまりこだわって、屁理屈をこねてはいけません。つまり私たちは必ずしも子夏の説のとおりに「枉げ」を邪悪な人としなくても、「直」を正直な人としなくても、もっと広く「まちがい」と「正しい」、あるいは「まちがい」と「正しい」と解釈することができるのです。すると孔子の言葉はこう訳されます:誤りの代わりに正しいものを使えば(挙直誤諸枉げ)、誤りを正すことができる(使枉者直)。

これが薬の処方です。じつは似たようなことを孔子はほかにも言っています。『論語・為政』によれば、魯の哀公が孔子に政を問うたそうです。魯の哀公が即位したのは前四九四年、孔子が五八歳のときです。孔子は国に仕えていました。哀公問政、紀元前484年に孔子が帰国してからと思われます。哀公が、どうすれば人民を服従させることができるのか(則民服とは何か)と問うと、孔子は答えました。挙枉錯諸直、則ち民は服さず」とあります。正しいもので間違ったものに取って代われば、民衆は心悦んで承服します。間違ったものを正しいものに代えれば(枉錯して諸直を挙むるなり)、民衆は服従しませんし、あるいは心をもって承服しません。これは薬ではありませんか。

では、何が正しく(直)、何が間違って(枉げて)いるのですか?

とても簡単で、礼、正しくて、「直」です。非礼、無礼、乱礼、悪礼は、すべて誤りであり、「枉げ」でもあります。なぜでしょうか。孔子の考えでは、礼は「礼」であると同時に「理」でもあるのです。それは礼儀や礼儀だけでなく、真理や道理でもあります。真理はすべて正直であり、だから「礼」も「直」なのです。反対に、礼壊楽崩は、むろん「枉げ」です。枉げば則曲、直せば則正、直せば則気壮なり。ゆえに君子あるいは志ある者は、礼壊楽崩の「枉げ」を前にして、堂々と「挙直誤諸枉げ」を行い、正しくない「非礼」を正して「礼」に代えるべきであります。

可是,怎样才能“举直错诸枉”呢?

克己复礼。这是孔子对颜回的回答。据《论语·颜渊》,颜回也曾向孔子问仁。孔子的回答,就是这四个字。什么叫克己复礼?一般的解释,都说克己就是克制自己,复礼就是复归于礼。但这里有一个问题:礼,原本是理直气壮的,怎么还需要克制自己?因此也有人解释说,克,就是能够;复,就是实践。克己复礼,就是能够(克)亲自(己)实践(复)礼。这个我们就不讨论了。总之,只要能够“克己复礼”,就能“举直错诸枉”,拯救这个有病的社会。这就是孔子的药方。

不过这样一来,又有了新的问题:靠什么来“克己复礼”?

しかし、どうすれば「挙直まちがい諸枉げ」ができるのでしょうか?

お礼を言います。これが顔回に対する孔子の答えです。『論語』の顔淵によれば、顔回も孔子に仁を尋ねたそうです。孔子の答えは、この四文字でした。返礼って何ですか?一般的な解釈では、克己は己を抑えること、復礼は礼に復帰することです。しかしここに問題があります:礼、もともと堂々としているのに、どうしてまた自分を抑える必要がありますか?ある人はこう説明しました「グラム」とは「できる」のことです復は、実践です。克己復礼とは、礼を自ら(己)実践(復)できることです。それについては議論しません。つまり、「己を正して礼を返す」ことができれば、「まちがいを正してまちがいを犯す」ことができて、この病気の社会を救うことができるのです。これが孔子の処方です。

しかし、こうなると、何をもって「返礼」するのか、という問題が出てきます。

仁。或者说,仁爱。孔子在回答颜回的问题时,说得很清楚:“克己复礼为仁。一日克己复礼,天下归仁焉。”归,有人说是赞同(朱熹),有人说是称许(杨伯峻),也有人说是回归(李泽厚)。其实都一样。就是说:只要我们能够“克己复礼”,那么,普天下人也都会赞同和称许,从而使全社会回归到仁。

这样一说,就让人糊涂:又是仁,又是礼,到底是仁还是礼?

是仁,也是礼,但归根结底是仁。孔子说过:“礼云礼云,玉帛云乎哉?乐云乐云,钟鼓云乎哉?”(《论语·阳货》)这话翻译为白话文,就是:礼呀,礼呀,难道就是玉器和丝绸?乐呀,乐呀,难道就是金钟和皮鼓?也就是说:礼难道就是礼物,乐难道就是乐器?当然不是。那是什么?是仁,是爱。

这一点,在孔子那里十分明确。孔子认为,我们之所以要有礼,要有乐,就因为人们有爱心。爱心是需要表达的,表达的方式就是礼和乐。比方说,父母去世,要披麻戴孝,守丧三年,就是为了表达爱心。为此,孔子和宰予,还曾经有过一次不愉快的辩论。

仁です。あるいは、愛情です。孔子が顔回の問いに答えたとき、「己を正し礼をもって仁となす。一日己に礼を返し、天下は仁に帰ります。」帰、ある人は賛同(朱熹)といい、ある人は許(楊伯峻)といい、ある人は回帰(李沢厚)といいます。どちらも同じです。つまり、私たちが「己を正して礼を返す」ことができれば、天下の人々もそれに賛同し、それを称賛して、社会全体を仁に戻すことができるのです。

こう言われると、仁か礼か、仁なのか礼なのかわからなくなります。

仁でもあり礼でもありますが、所詮は仁です。孔子は言いました:「礼雲礼雲、玉帛雲は哉か。楽雲楽雲、鐘鼓雲乎哉ですか?」これを白話文に訳すと、「礼よ、礼よ。まさか玉器や絹ですか?」楽よ、楽よ、まさか金の鐘と皮太鼓ですか?つまり:礼は贈り物で、楽は楽器ですか?そんなことはありません。あれは何ですか。仁であり、愛です。

そのことが孔子にははっきりしていました。孔子は、われわれが礼をわきまえ、楽をわきまえなければならないのは、人々に愛があるからだといいました。愛情は表現が必要で、表現の方式は礼と楽です。たとえば、親が死んだら、三年間、喪に服して、愛情を示すのです。そのために、孔子と宰予とは、一度だけ、不愉快な議論をしたことがあります。

宰予,前面说过,就是因为白天睡觉被孔子痛骂,却又极其崇拜孔子的那个学生(见第一章第六节)。此人在孔子门下属言语科,大约是能言善辩的。但观点往往与先生不同,还爱较劲,因此不大招孔子待见。不过宰予好像也不在乎,该问还问,该说还说,甚至刁难老师。据《论语·雍也》,宰予也曾向孔子问仁。但他不像其他同学那样老老实实、恭恭敬敬地问,而是出了个假设题。宰予问:假设告诉仁者(仁者,虽告之曰),说有个好人掉到井里去了,他也跟着跳下去吗(其从之也)?虽,就是假设。这种假设题都不好回答。比如许多女人都喜欢问:我和你妈掉水里去了,你先救谁?就怎么回答都不是。宰予这个“虽告之曰,井有仁焉”也一样。孔子怎么回答?孔子说,怎么会这样呢(何为其然也)?意思就是:怎么可以这样假设呢?孔子接着说:对于君子,可以要求,不能陷害(可逝也,不可陷也);可以欺骗,不能愚弄(可欺也,不可罔也)。当真有人掉进井里,君子肯定要救。但你不能故意弄个人到井里,然后把君子也弄进去。这就是陷害。你也不能哄骗君子,说井里有人。等他下去了,你又看他笑话。这就是愚弄。再说了,救人也未必一定要跳井,还可以有别的办法嘛!总之,对君子,你只能实事求是,不能设套。这一次辩论,孔子赢了。

关于三年之丧的辩论,则谁也没能说服谁,不欢而散。据《论语·阳货》,有一次宰予跑去对孔子说:三年之丧,这时间也太长了吧?照学生看来,有一年也就足够了。为什么一年呢?因为陈米吃完(旧谷既没),新粮登场(新谷既升),就是一年。打火用的燧木,春夏秋冬,各取一种。一个轮回(钻燧改火),也正好一年。所以一年合适。

宰予は、先にも述べたように、昼間寝ていたために孔子に罵倒されながらも、ひどく孔子を崇拝していた学生です(第一章の六を参照)。この人は孔子門の言語科に属していますから、達弁でしょう。しかし、考え方が先生と違っていたり、ねじれたりすることが多いので、孔子にはあまり歓迎されませんでした。しかし、宰予も気にしていないようで、聞くべきことは聞いて、言うべきことは言って、先生に難癖をつけていました。『論語』雍也によれば、宰予も孔子に仁を尋ねたそうです。しかし、彼は他のクラスメートのようにおとなしく、恭しく聞くのではなく、仮説の問題を出しました。宰予は問う。仁者(仁者、告げたとはいえ)に、いい人が井戸に落ちたと言ったら、彼も飛び降りますか。とはいえ、仮説です。このような仮説は答えにくいものです。例えば、多くの女性が「私とお母さんは水の中に落ちた。あなたはまず誰を助けますか?」と聞くのが好きだ。どう答えても違います。宰予の「井戸に仁あり」も同じです。孔子は何と答えましたか。孔子は、どうしてこうなったのかと言いました。どうやって仮定することができますか?孔子は続けて言います:君子に対して、要求することができて、陥れてはいけません(死んでもよい、陥れてはいけません);欺くことはできても、愚弄することはできません。本当に誰かが井戸に落ちたら、君子は必ず助けなければなりません。しかし、井戸の中にわざと人を入れて、君子を入れてはいけません。それが陥れです。井戸の中に人がいると君子をだましてはいけません。彼が降りて行ってから,あなたはまた彼を見て笑い話をします。それが愚弄です。それに、人を救うために、井戸から飛び出さなくてはならないとは限らない、ほかに方法があるでしょう。要するに君子に対しては,君は実事求是であるべきであって,罠をはめてはいけないのです。この議論は孔子が勝ちました

三年の喪についての議論は、誰も説得することができずに終わってしまいました。『論語』によれば、あるとき宰予が孔子に向かって、三年の喪とは長すぎるのではないかと言ったそうです。学生にしてみれば、一年あれば十分です。なぜ一年ですか?古米がなくなり(旧穀既没)、新穀が登場(新穀既升)すれば、一年です。火を打つ燧木は、春夏秋冬、一種類ずつ取ります。1つの輪廻(燧をくぐって火を変える)、同じくちょうど1年です。だから一年がいいんです。

这无疑是对礼乐制度的直接挑战。但宰予不愧是言语科的学生,话说得理直气壮。宰予说,为什么要反对守丧三年?因为“君子三年不为礼,礼必坏;三年不为乐,乐必崩”(礼坏乐崩一词即出典于此)。三年之丧既然会导致礼坏乐崩,当然应该改革。

宰予的话说得有理有据,孔子无法正面批驳,便问:父母去世不到三年,你就吃细粮穿丝绸,心里好过吗?宰予说,好过呀(安)!这下子孔子无话可说了,只能气呼呼地对宰予说:“女(汝)安则为之!”你心安理得,你就那样做好了!孔子接着说:一个君子,在他居丧的时候,因为悲痛万分,食不甘味,寝不安眠,听音乐不觉得快乐,这才要披麻衣、吃粗粮、住草庐。你既然心里好过,你就吃你的细粮,穿你的丝绸,听你的音乐好了!

听了孔子的话,宰予一声不吭就出去了。这时孔子说:宰予真是不仁呀(予之不仁也)!一个小孩子,生下来三年以后,父母亲才不抱他了。(子生三年,然后免于父母之怀)所以“三年之丧”,是“天下之通丧”。宰予这人“也有三年之爱于其父母乎”?

最后这句话,也有各种翻译。一种是生气的口吻:宰予难道就没有从父母那里得到过三年之爱吗?意思就是:他怎么可以批评三年之丧?第二种是惋惜的口吻:宰予不也从父母那里得到过三年之爱吗?意思就是:他怎么会去批评三年之丧?第三种是同情的口吻:宰予恐怕是没有从父母那里得到过三年之爱吧?意思就是:要不然怎么会批评三年之丧?但不管哪种解释,“三年之丧”都源于“三年之爱”。

礼楽制度への直接的な挑戦であったことは間違いありません。しかし、さすがに宰予は言語科の学生らしく、堂々と言いました。宰予は、なぜ喪三年に反対するのですか、といった。「君子が3年礼を為さないため、礼は必ず悪くなります;三年楽を為さざれば、楽必ず崩れる」(礼壊楽崩の語はこれに由来します)。三年の喪が礼壊楽崩につながる以上、改革すべきです。

宰予の言葉にはもっともな根拠があったので、孔子は正面から反論することができず、「父母が死んで三年も経たないうちに、穀物を食べて絹を着て、心が楽になりましたか」と尋ねた。宰予は言いました。過ごしやすいですね。孔子はもう何も言うことがありませんでした。怒って宰予に言いました。あなたは安心して、あなたはそのようにします!孔子は続けて、「ある君子は、喪に服している時、悲しみが深く、甘味を食べず、安眠もせず、音楽を聞いても喜びを感じないので、麻衣を着て、雑谷を食べ、草廬に住むのです。気持ちがいいなら、あなたはあなたの食糧を食べて、あなたのシルクを着て、あなたの音楽を聞きますよ!

孔子の言葉を聞くと、宰予は黙って出て行きました。この時孔子は言いました:宰予は本当に不仁ですね(予の不仁也)!子供は、生まれて三年もしないと、親が抱かなくなります。(子は三年生まれ、そして親の懐から免れる)ですから「三年の喪」は、「天下の通喪」です。宰予という人も「三年の愛を父母に持ちましたか」。

最後の言葉も、いろいろな翻訳があります。一つは、宰予は親から三年も愛されなかったのですか、と怒った口調だった。彼はどのように3年間の喪を批判することができますか?二つ目は、宰予も三年間、親から愛されたことがあるでしょう。三年間の喪に服していることを批判することはありません三つ目は、おそらく宰予は親から三年も愛されなかったのでしょう。そうでなければ三年の喪を批判することはできません。いずれにせよ、「三年の喪」は「三年の愛」に由来します。

孔子的这个说法,后来遭到了墨子的猛烈批判。墨子说,用三年“乃免于父母之怀”之类的说法,来解释三年之丧,这实在是太可笑了!小孩子依恋父母,是因为不懂事(愚之至也)。所以他们找不到父母,就会号啕大哭。儒家的智商,难道就是小孩子的水平?(《墨子·公孟》)这个批判,当然很机智,却也未免把孔子看简单了。其实孔子的意思,是所有的爱都必须得到报答。父母亲抱了我们三年,我们就应该为父母守丧三年。这就是爱和爱的回报,也就是“仁”。没有这份爱心,就是“不仁”。仁为礼乐之本,有仁爱就有礼乐,反之则无。所以孔子又说:“人而不仁如礼何?人而不仁如乐何?”(《论语·八佾》)这话直译过来就是:明明是个人,却没有爱心,那他会拿礼怎么样,又会拿乐怎么样?不当回事呗!

この孔子の言葉は、後になって、墨子に痛烈に批判されました。墨子は、三年は「親の懐をまぬがれる」などという言い方で、三年の喪を説明すると言っていますが、これは実に滑稽です!子供が親に恋い焦がれるのは、物心がつかないからです(愚の至りです)。だから親を見つけることができず、泣きわめくのです。儒家の知能指数は、子供のレベルなのでしょうか。(『墨子・公孟』)この批判は、もちろん機知に富んでいますが、孔子を安易に見ているような気もします。すべての愛は報われなければならない、というのが孔子の言葉です。両親に抱かれて三年、私たちは両親の喪を三年守らなければなりません。それが愛と愛の報酬、つまり「仁」なのです。この愛情がなければ、「不仁」です。仁は礼楽の本で、仁愛があれば礼楽があり、その逆はありません。だから孔子はまた言いました:「人にして不仁は礼のようですか?人にして仁にあらずして楽む如し何ですか?」明らかに個人なのに、愛がなかったなら、彼は礼を取ってどうしたでしょうか。楽を取ってどうしたでしょうか。どうでもいいじゃないですか。

事实上也是不当回事。比方说,“八佾舞于庭”。佾,音义,也就是乐舞的行列。一行八人,叫一佾。用几行,就叫几佾。我们知道,古代的乐舞,并不简单的只是艺术,它也是政治,是伦理,是礼。所以,佾,不是可以随便用的。按照周礼,天子八佾,也就是每行八人,一共八行,六十四人;诸侯六佾,四十八人;大夫四佾,三十二人;士二佾,十六人。另外也有一种说法,是每行的人数与佾数相同,叫做“行数人数纵横皆同,故曰佾”(《字汇·人部》)。如此,则天子八行,六十四人;诸侯六行,三十六人;大夫四行,十六人;士二行,四人。超过这个规定,就叫僭越。可是,鲁国的大夫季孙氏(可能是季平子),却公然用了天子的礼仪,让六十四人排成八行在庭院里演出乐舞(八佾舞于庭),这就是极其严重的僭越了。因此孔子愤怒地说:“是可忍也,孰不可忍也!”(《论语·八佾》)这话也有两种解释。一种是:如果这样的事都能忍心做出来,还有什么事做不出?另一种是:如果这样的事都能容忍,还有什么不能容忍?这就是“人而不仁如礼何,人而不仁如乐何”。

事実、たいしたことではありません。たとえば、「パルイルムを庭で踊った」です。イルム、音義、つまり楽舞の行列です。一行八人、イルイルムと叫びました。何行を使って、イルムと呼ばれました。私たちは知っています。古代の楽舞は、単純なのは芸術だけではありません。それは政治でもあり、倫理でもあり、礼でもあります。だから、イルム、勝手に使うことはできません。周礼によると、天子のパルイルム、すなわち、それぞれの行に8人、合わせて8行、64人だったとします。諸侯六イルム、48人です;大夫の四イルム、32人です;士二イルム、16人です。また、イルムの数と行の数が同じだったので、イルムの数が縦横ともに同じだったので、イルムといったという説もあります(『字彙・人部』)。これで則ち天子八行、六十四人となります。諸侯六行、三十六人です。医者は四行で十六人です。士二行、四人です。この規定を超えることを僭越といいます。ところが、魯国の大夫季孫氏(おそらく季平子)が、公然と天子の礼を用いて、六十四人を八行に並ばせて、庭園で国家の楽舞を演じさせた(八イルムを庭で踊った)のですから、甚だ僭越です。そこで孔子は怒って言いました。「忍ぶべからず、忍ぶべからず」。この言葉にも、二つの解釈があります。一つは:もしこのような事はすべて忍びないですることができるならば、またどんな事ができないことがありますか?もう一つは、こんなことが許されるのなら、他に許されないことはない、ということです。「人にして仁ならざるは礼の如し、人にして仁ならざるは楽の如し」です。

显然,礼乐的根本,就是“仁”,也就是爱心。有没有爱心,是每个人自己的事。能不能实践礼,也是每个人自己的事。这就叫“为仁由己,而由人乎哉”(《论语·颜渊》)。因此,礼坏乐崩绝不是礼乐制度出了问题。从根本上说,是人性出了问题,是人心出了问题;而解决问题的唯一办法,就是找回爱心,让世界充满爱。

问题是:找得回来吗?

孔子认为找得回来。因为爱心就在每个人的内心深处,仁的基础也在每个人的人性之中。这就是“亲亲之爱”,也就是对自己的亲人——父母、子女、兄弟姐妹的爱。这种爱,是与生俱来、天然合理、无需教育、不证自明的,也是最真实、最可靠的。《论语·子路》所记孔子与叶公的对话,就很能说明这个问题。叶,音射,楚县名。楚国的县官,大的叫公,小的叫尹。叶公,就是叶县的长官。叶公对孔子说:我们那里,有一个很“直”的人。他的父亲偷了别人的羊,他就去举报(证之)。孔子说:我们的“直”和你们不一样。父亲替儿子隐瞒,儿子替父亲隐瞒,这就是直,就是真实、坦诚、直率(直在其中矣)。

明らかに、礼楽の根本は、「仁」、つまり愛です。愛情があるかないかは、その人の問題です。礼を実践できるかどうかは、その人次第です。これを「仁を為すは己に由り、人に由るは乎や」といいます(『論語』顔淵)。したがって、礼壊楽崩は決して礼楽制度に問題があったわけではありません。根本的には、人間性に問題があるのです、人間の心に問題があるのです。問題を解決する唯一の方法は、愛を取り戻し、世界を愛で満たすことです。

問題は取り戻せるかです

孔子は取り戻せると思ったのです。なぜなら、愛は人の心の奥底にあり、仁の基礎も人の人間性の中にあるからです。これは「親愛の愛」、つまり自分の家族である親、子、兄弟に対する愛です。この愛は、生まれつき、自然で合理的で、教育もなく、証明もなく、最も真実で、最も確実なものです。『論語』子路に記された孔子と葉公の会話がそれを物語っています。葉、音射、楚県名です。楚の国の県官は、大きいのを公、小さいのを尹といいます。葉公、葉県の長官です。葉公は孔子に言います:私達の所、1人のとても「まっすぐ」な人がいます。彼の父親が他人の羊を盗んだので,彼は通報しました。孔子は言いました:私達の「まっすぐ」はあなた達と同じではありません。父は息子のために隠して、息子は父のために隠して、これはまっすぐで、真実で、率直で、率直です。

这话我们听不懂。要说“子为父隐”是孝,“父为子隐”是慈,还讲得过去,怎么会是直(真实、坦诚、直率)呢?原来,孔子理解的真实,与我们今天讲的真实不一样。我们今天讲的真实,是科学的真实,事实的真实,物理的真实。孔子讲的,则是道德的真实,情感的真实,心理的真实。孔子认为,一个人亲爱自己的家人,是最真实的。因此,他为亲人隐瞒事实,其心理动机和情感体验也是真实的。这是人性的真实,也是最高的真实。没有这个真实,连人都不是,还说什么其他?这就是孔子的真实想法。毫无疑问,这个想法有一定道理,甚至很有道理(请参看本书第六章第五节),但也有很多问题。比方说,中国人一事当前,往往“不问是非,只问亲疏”,甚至不惜徇私舞弊,徇情枉法。又比方说,学术观点不同,往往发展为门户之见,甚至人身攻击,就有这种思想的影响。当然这是后话。

仁爱之心既然植根于亲情,那么,事情也就变得简单好办了。首先,可以对已经遇到麻烦的礼乐制度进行积极的改革。因为所有的道德规范,比如君仁臣忠、父慈子孝之类,都可以解释为爱。君仁,就是君爱臣;臣忠,就是臣爱君;父慈,就是父爱子;子孝,就是子爱父。这样一来,那些繁文缛节就能简化为爱,统一为仁,原本难以维持的礼乐制度说不定就能维持了。第二,子爱父,父爱子,臣爱君,君爱臣,由此及彼,推己及人,就能实现以德治国。因为当时的天下,是“家国一体”的。国,就是放大的家;家,就是缩小的国。在家为孝子,出门就是忠臣。在家为慈父,在国就是仁君。第三,君爱臣,臣也爱君,政权就稳定。父爱子,子也爱父,社会就安定。总之,抓住了“仁”这个根本,就天下太平。

この話は私たちには聞き取れません。「子は父に隠れる」が孝、「父は子に隠れる」が慈しみといえば、まあまあ、どうして直(真実、素直、率直)なのでしょうか。孔子が理解している真実は、今日の真実とは違うのです。今日の真実とは科学の真実真実物理の真実です孔子は道徳の真実感情の真実心理の真実を説いています孔子は、自分の家族を親愛する人は、最も真実だと考えています。だから、身内に事実を隠していた彼の心理的な動機や感情的な体験も真実だったのです。それが人間性の真実であり、最高の真実です。この真実がなければ、人間でもないのに、何が言えるんですか?これが孔子の本音です。確かに一理あり、一理ありますが(第6章の5を参照)、多くの問題点があります。たとえば、中国人は事あるごとに、「是非を問わず、ただ親疎を問う」ことが多く、情実で不正を図り、情実で法に腐心することさえ厭わないのです。あるいは、学問的な観点の違いが、往々にして常識的な見方に発展したり、個人攻撃につながったりするのには、このような考え方が影響しているのかもしれません。もちろんこれは後日談です。

仁愛の心が親心に根ざしている以上、事は簡単になります。まず、すでに問題になっている礼楽制度を積極的に改革することができます。すべての道徳規範、たとえば君仁臣忠、父慈子孝などは、すべて愛と解釈されるからです。君仁、君は臣を愛します;臣は忠で、臣は君を愛します;父慈は父の愛情の子です;子孝とは、子が父を愛することです。そうすれば、旧来のしきたりは愛に簡略化され、仁に統一され、それまで維持が困難であった礼楽制度が維持されるかもしれません。第二、子は父を愛し、父は子を愛し、臣は君を愛し、君は臣を愛し、ここから彼に至り、己を推して人に至り、徳をもって国を治めることができます。当時の天下は、「家国一体」でしたから。国、拡大する家です;家とは、小さくなった国のことです。家にいれば孝子、外に出れば忠臣です。家では慈父、国では仁君です。第三に、君が臣を愛し、臣も君を愛せば、政権は安定します。父は子を愛し、子も父を愛して、社会は安定します。要するに、「仁」という根本をつかめば、天下は安泰なのです。

孔子这方案看起来不错,可惜谁都不听他的。诸侯各国,依然是君不君,臣不臣,父不父,子不子;鲁国的大夫,也照样“八佾舞于庭”。孔子连他自己国家的局面,都扭转不了。能够说一说的,也就是自己的学生。比如前面说过的冉有,是理财专家。他当上季康子的大管家(宰)以后,推行田亩税和兵役法的改革(请参看杨伯峻《春秋左传注·哀公十一年》),就让孔子极为愤怒。据《论语·先进》,孔子认为,“季氏富于周公”已是僭越,岂能再搜刮钱财,富上加富(为之聚敛而附益之)?于是就对其他学生说:冉求不是我的学生(非吾徒也),你们可以大张旗鼓地去揍他(小子鸣鼓而攻之,可也)!

据《左传·哀公十一年》,季孙、冉有他们的改革方案,其实事先是征求过孔子意见的,但是孔子不肯表态,说孔丘不懂这些事(丘不识也)。再三问,孔子还是不说。后来季康子表示:先生是“国老”(退休的国之卿大夫),就等着先生的意见做决定(待子而行),先生为什么不说呢?孔子还是不肯公开答复,只是私下里对冉有说:君子做事,依礼而行(君子之行也,度于礼),那就是施恩力求丰厚,做事必须适中,赋敛尽量微薄(施取其厚,事举其中,敛从其薄)。这就是孔子的意见,可惜季康子不听,冉有好像也没听。

孔子の案は良さそうですが、残念ながら誰も聞いてくれません。諸侯各国、依然として君は君でなくて、臣は臣でなくて、父は父でなくて、子は子でありません;魯国の大夫も、同じく「パルイルムを庭に立てました」。孔子は自分の国の局面さえ、変えることができません。話せるのは、自分の生徒だけです。たとえば前出の冉さんは、お金の専門家です。季康子の大執事(宰)になると、田畝税や兵役法の改革を行い(楊伯峻『春秋左伝注・哀公十一年』参照)、孔子を激怒させました。『論語・先進』によれば、孔子は「季氏が周公に富む」というのは僭越なことで、これ以上金銭を集めて、富の上に富を加えることはできません。そこで他の学生に言いました:冉は私の学生ではありません(我が徒ではありません)、あなたたちは盛大に彼を殴ることができます(小僧鳴鼓而攻之、可也)!

『左伝』哀公十一年によると、季孫と冉は改革案を持っていて、実は事前に孔子の意見を求めたのですが、孔子は孔丘はこのことを知らない(丘不識也)と言いました。何度尋ねても孔子は答えませんでした。後に季康子は言います:先生は「国老」(引退した国の卿の大夫)で、先生の意見を待って決定して、先生はどうして言わないのですか?孔子はやはり公には答えませんでしたが、ひそかに冉有にこう言いました。「君子は仕事をする時、礼に依って行います。恩を施す時はできるだけ豊かにし、仕事をする時は適度にしなければなりません。これが孔子の意見ですが、季康子も聞かなかったし、冉有も聞かなかったようです。

显然,孔子对当时的社会状态,是既痛心疾首,又无可奈何。他管不了诸侯,管不了大夫,管不了大夫的家臣,甚至管不了自己的学生。所谓“小子鸣鼓而攻之”,恐怕也只是说说而已。孔子真的很无奈。

看来孔子的药方是不灵了。那么,墨子又如何?

明らかに、孔子は当時の社会状態について、痛切でありながらも、どうしようもなかったのです。彼は諸侯も、大夫も、大夫の家来も、自分の弟子さえも管理できません。「殴れば殴れ」というのも、おそらく言葉だけでしょう。孔子は本当に困っていました。

どうやら孔子の処方は効かないようです。では、墨子はどうでしょう。

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